破滅に導くサイボーグ
「しっかり次世代につなげられた2代目というのは、初代にはない素質のようなものを持っていないとできないだろう」
つまりは、その人の性格にもよるというもので、大日本帝国が、敗戦まで続いたのは、
「しっかりした議会や、内閣制度、さらには、軍政もしっかりしていたからではないだろうか」
ただ、それよりも、いろいろと物議をかもすということも多いが、
「天皇制」
という、
「日本の国体」
というものが、
「国民一人一人にしみついていて、ひどい言い方をすると、洗脳されていたともいえるかも知れないが、国家体制の継続という意味では、しっかりしたものだった」
といっても過言ではないだろう。
それだけ、大日本帝国というのは、しっかりとしたものであって、
「不平等条約撤廃」
を目指し、
「富国強兵」
「殖産興業」
政策がしっかりと行われ、先進国に近づくための、議会政治であったり、内閣制度の確立。さらに、軍部の統制と、
「天皇直轄であった」
ということが、賛否両論あるだろうが、功を奏したと考えてもいいのではないだろうか?
それだけ、大日本帝国は、その後の、平和主義になった時代から見れば、
「古めかしい黒歴史」
のように思われるかも知れないが、その後の時代の民主主義に比べて、決して劣っていたわけではないといえるのではないだろうか?
鮫島博士は、そんな大日本帝国の、
「国家の存亡」
を任されたという気概を持って。研究をしていた。
それが、
「愛国心」
というものであり、その後の、
「民主主義」
と言われる時代に、
「もっとも低下した」
あるいは、
「消滅した」
と言われるものではないだろうか?
何といっても、新憲法の下では、
「国民主権」
「基本的人権の尊重」
「法の下の平等」
であるが、国民主権だからといって、
「個人主義」
というわけではない。むしろ、平等というのも、
「法の下の平等」
ということであって、裏を返せば、
「法律に違反することになるのであれば、平等でなくてもいい」
ということになる。
「民主主義というのは、多数決だ」
と言われる。
それは当たり前のことであり、その場合の少数意見は、完全に、抹殺されるといってもいいだろう。
例えば、
「人一人の命は地球を重い」
という人がいるが、たとえば、
「悪の組織のテロリストのような連中が、自分たちの要求を受け入れさせえるために、誰か善良な市民を人質にとったとしよう。その時、人質解放の条件として、犯罪人の釈放を要求してきたとして、聞き入れられなければ、人質を殺す」
となった場合、
「人の命が、一番大切だ」
ということになれば、まずは、人質解放のために、相手の意見を飲むだろう。
しかし、普通はそんなことはしない。
「国の威信」
ということで、相手の要求を蹴ったりすることだってあるだろう。
実際に、レンジャー部隊を送り込んで、
「ひょっとすると、人質が危ないかも知れない」
という状態でも、治安を取り戻すことが大切だということで、強硬突破を試みる国もある。
それは、人質一人の命と、この時間にでも、他に犠牲者が出ているかも知れないと考えた時、
「どっちが、まだましなのか?」
と考えることだろう。
それを思うと、
「国家がどちらを選ぶのか?」
ということが、そのまま、国家主義に結びついてくるといってもいいだろう。
「民主主義なら、こうする」
「社会主義なら、こうする」
ということである。
そういう意味で、
「本来、人間の命は平等であるはずだ」
ということであれば、
「国家体制によって、変わってくるというのであれば、どの国に生まれるかということで、運命が変わるというものだ」
さらに、どの国に生まれても、一生のうちに、クーデターが起こらないとも限らない。国家によっては、ずっと内乱が続いているところもあるではないか。表に出るだけで、殺される危険にさらされるということであれば、それが、その人の運命だとすれば、
「これのどこが、平等だ」
ということになるだろう。
大団円
要するに、民主主義における多数決という考え方。ある意味では、
「これほど、不公平なことはないだろう」
といえるのではないか。
なぜなら、民主主義における自由の代償が、
「少数意見を抹殺する」
という不公平さである。
さらに、
「多数派が正しい」
という凝り固まった考えとなり、
「それは、国民を洗脳しやすい」
ということになるであろう。
世界ではどうか分からないが、少なくとも、日本において、民主主義になってから、
「カルト宗教」
などにおける、
「洗脳」
というのは、絶えず、社会問題となっているのが、その証拠ではないだろうか?
民主主義の自由というものが、本当に素晴らしいのであれば、新興宗教の蔓延る隙間などがあるわけはないということであろう。
そういう意味で、
「社会主義の台頭」
というものがあり、そのスローガンとして、
「自由主義における限界である。不公平や、貧富の差をいかに是正するか?」
ということが叫ばれるのであったが、
「そんな社会主義を、最初は、素晴らしいものだと思っていた人もいたが、そのうちに、諜報活動などによって、水面下で進める、共産化」
であったり、
「社会主義という国では、国家が強いということで、国家元首の胸三寸ということが、いかに国民にかかわっていくかということになると、結果的に。政府、あるいは、元首に従わない者は、粛清される」
ということになるのであった。
それがそのまま恐怖政治となり、結果、個人にはまったくの自由がないのだ。
「自由もなく、国家に支配される」
ということは、帝国主義に戻ったかのようで、のちの世界で、一世紀も、ソ連が続かなかったということの証明であろう。
それだけ、国民の力というのは大きなものなのだ。
ただ、大日本帝国に限っていえば、他の国とは違う。
「2600年」
という長きにわたり、万世一系という皇族というものは、世界に例を見ない。
それだけ、日本国民の中に、天皇の存在は、神として崇められていて、戦争などで、玉砕や、特攻などという、
「報われない死」
というものを目の前にある人が決まって叫ぶ、
「天皇陛下万歳」
という言葉、のちの時代では、自由主義の名の下に、ギャグマンガなどで、
「笑いのネタ」
として書かれたりするという、とんでもないことがあったりするのだ。
もちろん、自分から死にたいなどと思う人がいるわけはない。
だから、ある意味、洗脳されたことで、
「どうせ死ぬことになるのであれば、少しでも、恐怖が和らぐのであれば、それでいい」
といえるのではないだろうか。
信念の下に行動し、死を選ぶということであれば、それを、
「自殺」
といえるのだろうか?
「自殺行為」
と、
「自殺」
では、種類が違っている。
それを思うと、国家体制というのは、いかに考えればいいかということである。
鮫島教授は、
「人間を改造して、兵器に仕立てる」
ということによって、
作品名:破滅に導くサイボーグ 作家名:森本晃次