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破滅に導くサイボーグ

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 というものがあれば、気になってしまうのは、昔からの、
「開かずの扉」
 というようなものの存在に近いものがあるのだという。
 そして、この村には、昔から、
「開かずの扉」
 に近いものがあり、それが、祠の向こうに位置している、
「洞窟だ」
 ということであった。
 村人の中の一つの言い伝えとして、
「祠の横にあった神社が取り壊されたのは、鬼門の方向だったということも一つの理由であるが、もう一つとして、その奥にある洞窟を、開かずの扉という形にしたい」
 ということからのようであった。
 その祠の近くには、滝があり、その轟音は、
「耳の感覚をマヒさせるだけのことはある」
 といえるくらいのものであった。
 というのも、
「この滝には、昔、神社を立てた人が、飛び込んだ」
 という伝説が残っているということであった。
 なぜ、滝に飛び込んだのかということは、あくまでも言い伝えということであり、信憑性があるものではなかった。
 こちらも、それぞれの家で言われていることが違っているということを教授は後になって知ったのだが、それは、
「伝説というものが、口伝というものと同じように、地域や、地域の特徴によって変わってくるのと同じ」
 だということであろう。
 この村の伝説としては、実際にはもっとたくさんあるのだろうが、教授が気になったのが、
「この神社の伝説」
 と、何よりも、
「時間の感覚」
 ということの二つであった。
 もちろん、最初に調査に来た、
「なぜ、満月の時に、子供が生まれるのか?」
 という都市伝説であったが、
「時間の感覚」
 というものが、その考え方にかかわっているのではないかと思うと、考えていくうちに、発想が次第に固まってくるかのように感じるのであった。
「前述の、太陽暦と太陰暦、月と太陽の関係」
 ということで、そもそも、満月というのが月ということなので、最初から、結びついていたのではないかということである。
 太陰暦というのが、月による暦で、太陽暦と比べても遜色ないといえるのではないかと思うのだが、どうしても、世界的に太陽暦なので、
「月というのは、隠れた存在」
 という感覚になっているのだった。
 しかし、実際に太陰暦というものが、存在していれば、
「太陽暦との間に、感覚の違いがあり、人間の本能として、いわゆる、遺伝子の影響から、身体の中の時間というものが、微妙に、太陰暦を指示していて、そのため、時間の長さによって、感じ方が違ってくるのではないか?」
 といえるのではないだろうか?
 というのも、
「月の周期が、一か月」
 ということなので、
「一か月における、その前後の感覚、つまり、一週間と、一年を比べると、まったく違う感覚だ」
 といえるだろう。
 しかし、実際には、
「一週間と一日でも違っている」
 というのは、
「閏」
 という微妙な周期の誤差があるからだといえるのではないだろうか?
 それを考えると、
「太陽暦でも、閏年というものがあるのだから、そのあたりの時間の感覚の違いというのは、存在するだろう」
 ということで、
「確かに実際は、そこまでの差異を感じたことはないのだが、差異を感じるというのは、自分の中での体内時計なのか、それとも、遺伝子による太陰暦というものが影響しているからなのか?」
 ということを考えさせられるのであった。
 祠の中に、どうやらその答えがあるようだが、村人は、
「絶対にあけてはいけないもの」
  ということで、伝説のようになっている。
「見るなのタブー」
 というものが、昔からのおとぎ話であったり、神話にはあるといわれているが、まさに、ここの伝説も、その、
「見るなのタブー」
 に当たるといってもいいだろう。
 祠の向こうにある洞窟には、
「コウモリがたくさんいる」
 という。
 そのコウモリの話になると、前に感じた、
「コウモリと、ドラキュラ」
 の話を思い出した。
 考えたこととして、
「コウモリは、暗い時に出てくるもので、満月ではない時に出てくる」
 という発想だったことを思うと、
「満月に子供が生まれるのは、吸血鬼になるのを恐れてのことではないか?」
 と考えられた。
「では、オオカミ男というのは、いいのだろうか?」
 ということであったが、
「オオカミ男には、出会ったからといって、自分もオオカミ男になる」
 ということはない。
 つまり、伝染性はないということだが、果たしてそうだろうか?
 オオカミ男が、一体だけが存在しているとすれば、それは、
「種の保存」
 ことを行うということではなく、
「一匹が、永遠に生きている」
 ということになるのだろう。
 オオカミ男と出会った人が、襲われたり、殺されたりという話は伝わっていない。あくまでも、
「オオカミに変身する男がいる」
 というだけで、吸血鬼のように、血を吸われたり、
「血を吸われたら、自分も、吸血鬼になってしまう」
 などという、
「直接的被害がある」
 というのは、実に恐ろしいこと。
「一つ考えたこととして、血を吸われた女が、吸血鬼になるということは、普段は、普通の人間として、表に出ているのは本人であり、あるタイミングになると、吸血鬼が現れるということで、それが、どのタイミングなのか」
 ということを考える。
 その違いを考えた時、
「人間の時とドラキュラになった時、時間の感覚はまったく違っていて、その感覚が、オオカミ男のようなものではないか?」
 と考えるのだ。
 なぜなら、
「オオカミ男というのは、伝染性があるわけではないので、一匹が、、影響を時間に対して影響を与える」
 と考えると、
「オオカミ男との遭遇が、時間の感覚をマヒさせたり、元に戻したりするのではないだろうか?」
 と感じるのだった。
 伝説というものを考えると、
「この村に、果たして、オオカミ男が存在しているのか?」
 ということは、少し、違うような気がする。
「満月」
 という言葉から、どうしても、
「オオカミ男」
 という発想が浮かんでくるのであるが、果たして、そうなのだろうか?
 国家において、今の時代は、
「国民は、国防のために兵士となり、国のため。天皇陛下のために、死んでいくものだ」
 という発想が、根っこにはあるのだろう。
「自分の国は、誰も守ってはくれない」
 という当たり前のことであるが、それは、日本の中の、市町村の間にも言えることではないだろうか>
 だから、村々に、神社や祠をまつり、
「村や町の安全を祈る」
 ということである。
 その時、
「村人一人一人の命というのは犠牲になるべきなのだろうか?」
 と考えるが、
 本当にそうなのだろうか?
 ただ、
「生を受けた」
 ということは、生まれる時に、その親であったりを選べない」
 ということで、
「死ぬ時だって選べない」
 と考えたとしても、それは無理もないことである。

                 変身

 この村において、満月について研究していた鮫島博士は、ある仮説を立ててみた。
「男の子ばかりが生まれるこの土地には、吸血鬼伝説があることで、女性の生き血を吸うドラキュラというものが、昔から伝説としてあったのではないか?」
作品名:破滅に導くサイボーグ 作家名:森本晃次