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果てのない合わせ鏡

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 ということも確かにそうであろうが、それよりも、もっと言われていることとして、
「第三国に、戦争を始めたことを宣言するためだ」
 ということでもあるのだ。
 戦争を始めた国に対しては。第三国は、その姿勢を示さなければいけない。
「どっちの国に加勢する」
 あるいは、
「中立を宣言する」
 などである。
 同盟を結んでいる国は、同盟国と一緒になって、宣戦布告をすることになるのだろうが、そうでない国は、自分の立場を明確にしておかないと、戦争に巻き込まれた時に、戦時体制の国も混乱するからである。
「敵。味方、あるいは中立」
 とハッキリしていないと、攻撃もできない。
 中立国を攻撃してしまうと、国際社会から、避難を浴びてしまうからであった。
 だから、他の国に、ハッキリと態度をさせるために、
「宣戦布告」
 というのは、大切なことなのである。
 だから、いわゆる、
「日中戦争」
 と呼ばれているものは、厳密には、
「前半と後半とでは違っている」
 と言われているのだ。
 というのも、元々は、小さ軍事衝突である、
「盧溝橋事件」
 から始まったものであるが、実際には、その和平交渉は終わっている。
 しかし、中国側の執拗な挑発から、日本は、戦闘しないといけない状態にされた。
 特に、
「通州事件」
 と呼ばれる、中国側による、
「日本人居留民」
 に対しての、
「大虐殺事件」
 が起こったのだ。
 そこで、日本のマスコミや、世論は、
「中国の暴挙を許すまじ」
 ということで、全面戦争に突き進むことになるのだが、その時に、
「日中ともに、宣戦布告をしていない」
 ということであった。
 というのも、
「宣戦布告をしてしまうと、第三国が、その立場を明確にしなければいけない」
 ということである。
 日本とすれば、宣戦布告をしてしまうと、
「アメリカが、中国と一緒になって、日本に宣戦布告するかも知れない」
 ということで、日本は曖昧にしておきたかった。
 中国側側からすれば、
「宣戦布告をしてしまい、アメリカが、中立ということを言いだせば、アメリカからの援助物資が入ってこなくなる」
 と考えたからだ。
 そもそも、アメリカは、
「モンロー主義」
 というものがあり、他の大陸の戦争には、消極的だということで、戦争に踏み切ることはないだろうが、中国に宣戦布告をしてしまうと、中国に、権益を持っている国は、日本に敵対する可能性もあるのだ。
 それは非常にまずいことで、
「どちらの国も、宣戦布告をするということは、得策ではない」
 ということであった。
 となると、
「宣戦布告なき戦い」
 ということになり、日本では、宣戦布告のない戦闘状態を、
「事件」
 あるいは、
「事変」
 と言っている。
 だから、満州事変も、宣戦布告がなかったのだ。
 日本も、最初は、盧溝橋事件からこっちは、
「シナ事変」
 という言葉を使っていた。
「日華」、「北支」などと言った事変を使うこともあるという。
 だから、本当の
「日中戦争」
 というのは、
「あくまでも、日本が米英に宣戦布告したことで、中国が日本に宣戦を布告した時からが、本当の日中戦争という」
 というのが、本当なのだ。
 日本という国は、そんな歴史を歩んできた国であり、戦後には、
「平和な国」
 などと言われてきたが、
「どこまでが、本当なのだろうか?」
 ともいえるのだ。
 そして、今の時代というのは、
「そんな平和ボケでいいのだろうか?」
 と考える人が増えてきているということであった。

                 アナフィラキシ―ショック

 最近よく聞く言葉に、
「アナフィラキシーショック」
 というのがある。
 それは、数年前にあった、
「世界的なパンデミック」
 というものから、言われるようになった。
 その時は、過去の歴史の中で、戦前くらいというから、
「80年以上前」
 という時代に、
「スペイン風邪」
 というものが流行ってからは、それほど、日本では、
「世界で発生した伝染病の脅威」
 というものの影響を受けているわけではなかった。
 しかし、今回の伝染病では、
「都市封鎖」
 と呼ばれる、
「ロックダウン」
 までが必要ではないか?
 という議論があった。
 しかし、日本は、戦争放棄をしたことで、
「有事」
 というものがなくなり、さらに、憲法で、
「基本的人権の尊重」
 ということで、個人の権利を、いくら伝染病が流行ったからといって、日本の憲法では、
「個人の権利を制限してはいけない」
 ということになるのだ。
 つまりは、昔の。
「大日本帝国憲法には存在した、戒厳令というものを敷くことはできない」
 ということである。
 戒厳令というのは、
「有事、つまり、戦争、クーデター、あるいは、都市の機能がマヒするくらいの大災害が発生した場合は、司令部を設け、その司令部が治安を守る」
 というものである。
 しかし、本来であれば、
「自然災害」
 というものは、平和憲法の下でも普通にあることで、かつての、
「関東大震災」
 の時のような、情報の錯そうによって引き起こされた、
「朝鮮人虐殺人」
 というものがあったのだから、少なくとも、
「治安を守る司令部くらいがなければいけないのではないか?」
 といえるだろう。
 それに、数十年前に起こった、
「新興宗教による、テロ事件」
 というものもあったではないか。
 そんな状態で、
「治安を守る」
 ということで、引き起こされるパニックによって、二次災害が起こらないようにいしないといけないだろうから、
「戒厳令」
 というものが、必要だと言えないだろうか?
 ほとんど、
「伝染病の脅威」
 というものを知らず、今の世の中において、
「パンデミック」
 という言葉、
「ロックダウン」
「クラスター」
 などという、それまでに聞いたことがないような横文字を、政府は簡単に使うようになったのは、やはり、専門家と呼ばれる、
「有識者」
 という人たちの影響であろうか。
 そもそも、
「まったく未知のウイルス」
 ということで、最初はとにかく、
「どうすればいいのか?」
 ということも分からずに、
「学校閉鎖」
 というものを行ったり、
「法的な拘束力はないが、日本において、一番厳しいものとして、数年前にできた、緊急事態宣言というもので、店舗への閉店、時短要請。会社へのリモートワークなどの要請」
 というものをやるだけだったが、少しは効果があったといえるだろう。
 しかし、何と言っても、
「正体不明」
 ということで、
「とにかくできるだけの対策を打つしかない」
 ということであった。
 そんな中において、一番の急務は、
「ワクチンの開発」
 であった、
 実際に、2年目くらいになり、ワクチンを海外の企業が開発し、
「摂取が始まった」
 ということであったが、それをいくらなんでも、強制的に摂取させることはできない。
 ということで、
「摂取するしないは、自由」
 ということであった。
 しかし、実際に、摂取する場合において、証明書を発行し、
「未接種の人には、できないことを設ける」
 ということを行った。
作品名:果てのない合わせ鏡 作家名:森本晃次