果てのない合わせ鏡
もちろん、表では、マスク着用は義務ではないが、
「着用していない人を拒否できる」
ということになった。
例えば、交通機関への乗り込みを拒否できるという法律ができたりして、いわゆる、
「強制ではないが、強制に近い差別化」
ということが行われたのだ。
つまりは、
「ほぼ、強制であり、ワクチンも摂取件を見せれば、映画館に入れたり、アトラクションに参加できたりという、差別化をされたことで、ワクチンを打つ人を募る形になったのだ」
しかし、実際にワクチンを打つ時、
「もし、何かあったらどうする?」
という国に対しての質問に、
「国が補償する」
と言ったのに、実際にワクチンが原因で死亡したということが明らかなのに、国は、
「因果関係が認められない」
などといって、最初に言ってワクチンを打たせたくせに、
「どの口がいう」
という状態であった。
それ以降、ワクチンに対しては、
「陰謀論などが蔓延っていて、国を二分するというより、世界を二分している」
といってもいいくらいであった。
そんなワクチンで、
「どんな問題があるのか?」
というと、何と言っても、
「本来であれば、ワクチンを作ってから、数年は、臨床試験を繰り返さないといけない」
といっているのに、できてからすぐに、打つということになり、国内で、
「打つ打たない」
で問題になったのだ。
前述の保障問題もそうだが、そもそも、
「完全でないものを、国民に強要するようなものだ」
ということで、
「賛成派」
と、
「反対派」
がもめていた。
何といっても、ワクチンを打てない人もいる。身体に、
「液体」
を入れてはいけないという人もいれば、
「アレルギーを持っている人もいる」
という。
少なくとも、発熱と腕の痛みという副作用は、
「限りなく全員に近いくらいにある」
ということで、逆に、
「熱が出ても、それは、副反応なので、大丈夫」
という始末。
そもそも、副反応が出ないようにして打たせるならまだしも、とにかく、どこに対しての発表なのか分からないが、
「ワクチンの効果に対してというよりも、接種率を競っているという、一体何がしたいのか?」
ということである。
そして、副反応の中に、
「アナフィラキシーショック」
というものがある。
これは、
「ごく一部の人に発症する可能性がある」
と、パンフレットには書かれていたが、これは、
「アレルギー性のショック」
というもので、
「身体の中にある抗体と、ワクチンが反応し、アレルギー性のショック状態を起こす」
というものである。
分かりやすい例でいえば、
「ハチに刺された時」
だと言えばいいだろう。
よく言われることとして、
「ハチに二度刺されると死ぬ」
ということで、対象はスズメバチだという。
というのは、
「一度目に刺された時は、毒性はあるが、死ぬことはない。その時に、侵入したハチの毒で、人間は、その抗体を作るのだという。そして、二度目に刺された場合には、どうなるか? というと、侵入してきたハチの毒に対して、抗体が反応し、毒と戦おうとするのだ。その時、毒と抗体は反応を起こし、アレルギー性のショック状態になるということである。そして、血清を打たないと、死んでしまう」
というのが、穴フィラクシーショックというものである。
つまり、
「ハチの毒で死ぬというわけではなく、ハチの毒素と、人間の身体にある、本来であれば、ハチの毒と戦ってくれている抗体とが反応を起こしてショック死するということなので、死因とすれば、アレルギー性のショック死ということで、アナフィラキシーショックによる、ショック死」
ということになるのだ。
「それなら、抗体など作らない方がいい」
と言いたいが、そういうわけにもいかないのが、人間の身体であった。
そんなアナフィラキシーショックというものが、
「何か科学的な効果をもたらす」
ということは、常々考えられるようになっていた、
その中で、
「W大学の、黒川博士」
という人物が、このことを提唱したのだが、他の学者は、この発想に消極的だった。
だが、それを推奨する人たちが、政治家に何人かいたのだ。
ただ、与党というわけではないので、大っぴらに国家の予算を使うわけにはいかない。とりあえず、金銭的には、大学や、その支援者で賄うことにしていたが、そこで、一つの新興宗教が、この研究に協力してきたことで、次第に、研究内容が、形になってくるのが、見えてきたのだ。
そのおかげで、この研究を行うのに、W大学の研究室が使えるようになった。
この新興宗教は、政府内部と、結構密接に結び付いていた。
実際に、一部のマスゴミや、国家公安あたりでは、
「このままでは、まずいのではないか?」
ということで、いずれは、政府と新興宗教における、ズブズブの関係を、
「どこかでたださないといけない」
と考えるようになっていた。
しかし、今の政府に逆らうということはできなかった。
時は、ちょうど、
「世界的なパンデミック」
が、まだまだ猛威をふるっていて、政府もその善後策に、苦慮していた時だったのだ。
政治は混沌とし、ロクなソーリは出てこない。
「最初こそ、やることなすこと。後手後手にまわる政策しか取れないソーリ」
であり、次のソーリは、
「とにかく力がなく、そのくせ、オリンピックを、ソーリの差という権力だけで、国民のほとんどが反対しているのに、強硬に押し通したことで、支持率が最悪となり、内部悲観を受けて、自分を余儀なくされた」
というソーリだった。
そして、もっと最悪なソーリが出てきたのだが、
「この男は、公約をいきなり破る男で、しかも、世界で戦闘状態になった国があったのだが、片方に肩入れし、世界各国同様に、経済制裁に名乗りを上げ、今、世界的なパンデミックのせいで、国内では、どんどん、苦しむ人が増えているというのに、そんな人を無視するかたちで、戦争をしている贔屓の国に、大枚をはたいて、支援する」
という、
「どこまで、国民を苦しめればいいんだ」
というとんでもない男だったのだ。
「そもそも、日本という国は、戦争放棄の憲法の国であるのだから、外国で、戦争が起これば、本来なら、いち早く、中立を示さなければいけない国なのに、かたや、経済制裁、かたや、経済援助と暴挙も甚だしい」
という状態であった。
要するに、
「自国民が苦しんでいようと、自分が世界に顔を売るために、血税を使う」
という、
「今までで、最低最悪のソーリ」
といってもいいだろう。
ここまで、
「これ以上最悪のソーリはいない」
といって、そのソーリが他の人に変わり、
「あれ以上のひどいソーリはいないだろうから、これからは、もう少しましな時代になるだろう」
という思いが、実は、
「もっと最悪」
ということになるのであった。
だからこそ、
「政府はもうあてにならない」
ということで、政府に敵対している野党としては、
「政府に対して、正攻法で戦いに挑んでいるような時間はない」
と思うようになっていた。