果てのない合わせ鏡
その使っていないという部分が、
「超能力」
と言われる部分で、それが、
「サイコキネシス」
であったり、
「テレパシー」
のような、
「人間であれば、使うことのできる能力」
として潜在しているものではないか?
と考えるのであった。
山南博士は、そのことに気付くと、大学に対して、
「研究の許可と、場所の提供を依頼した」
のであった。
山南博士は、大学きっての名誉教授であり、
「今の時代」
というだけではなく、
「今までの歴史を鑑みても、山南博士ほどのレジェンドはいない」
と言われている。
そう、
「大学始まって以来の、頭脳」
といってもよかった。
学会でも、博士は、
「誰が見ても、一目置く」
といっても過言ではない人だった。
「次回のノーベル賞だって夢ではない」
と言われていたが、なかなか、候補には上がっても、受賞するというところまではいかなかった。
それは、博士の研究が、
「微妙なところにある」
ということだったからだ。
その研究というのは、博士というのが、
「どうも、国家と何か、関係があるようだ」
ということを、ノーベル賞審査委員会のようなところが感じているのであって、それは、事実だとしても、最高国家機密であった。
しかし、そんな山南博士は、それまでは、
「ノーベル賞受賞」
ということに関わるようなまずいことを、政府と絡んでいるわけではなかった。
しかし、今回の、この
「ドラキュラ化」
ということへの研究に関しては、実際に、
「国家が関与している」
ということは、ノーベル賞の方でも分かっていなかった。
というのは、これが国家の発想であり、
「オオカミ少年」
の発想だったといってもいいだろう。
「オオカミ少年」
という発想は、
「ある悪戯好きな少年が、村人に対して、オオカミが来たといって、騒ぎまくる」
というところから始まる。
「村人は、驚いで逃げ出すが、それが間違いだったということで、事なきを得て、安心するのだった。しかし、それを何度も繰り返すうちに、村人も学習し、あんお子が騒いだ時は、デマなんだということで、誰も騒がないようになった」
という話であるが、
「そのうちに、本当にオオカミが現れ、皆村人は食べられてしまった」
ということであるが、この話の教訓はなんであろうか?
まず考えられることとして、
「最後まで警戒心を忘れないようにしないといけない」
ということは、当たり前のこととしてあるだろう。
ただ、もう一つは、
「たとえ、子供であっても、悪戯をしてしまうと、誰も信用してくれないということで、自分も食べられるということになる、もし、ターゲットが自分だけであっても、村人は、助けようとはしないかも知れない」
ということでもあるだろう。
そしてなんといっても、
「慣れというものが恐ろしい」
ということで、
「学習するということが、悲劇を産んだのか」
それとも、
「慣れになっていることで、誰もが信じない」
ということが、教訓なのだろうか?
と考えれば慣れの恐ろしさも含まれた話で、
「一つの教訓が、いくつもの派生型の教訓を産む」
といっても過言ではないだろう。
そして、
「オオカミ少年」
というのが、
「本当に、悪戯目的だったのか?」
ということである。
実は、オオカミは本当にいて、オオカミが確実に村人を食べるための策略、つまり、計画の一端だったとすれば、こんな恐ろしいことはない。
それが、
「国家が秘密を守るために、山南博士との間にあった話ではないか」
とも考えられる。
つまり、その秘密というのが、
「吸血鬼ドラキュラ」
の話を想像してしまうと、その先にある、
「たくらみ」
というものを誰にも分からないという、それこそ、
「オオカミ少年」
の話の教訓の一つでもあるかというような発想が、国家や山南博士にあったとするならば、
「こんなに恐ろしいことはない」
といえるだろう。
特に、今の時代の政治家にそんなたくらみがあるほどのことなどあるわけはない。
ということは、
「秘密結社」
という国家のウラに潜んだ、
「表の国家すら、まったく分かっていない」
というような、まるで、
「カプグラ症候群」
というものを彷彿させるものではないか?
と考えるのであった。
「カプグラ症候群」
というのは、最近の都市伝説のようなもので、一種の、
「妄想」
といってもいい。
というのは、
「自分の近しい人物。家族や恋人、親友などが、何かの秘密結社の策謀によって、悪の手先と入れ替わっている」
という妄想である。
妄想という意味では、
「中二病」
のようなものと似ているのかも知れないが、
「カプグラ症候群」
というのは、ほとんどが、妄想なのだろうが、本当に、
「妄想」
で片付けていいのだろうか?
というのは、やはり、
「オオカミ少年」
という考え方と絡んでいるからなのかも知れない。
そんな中で、気が付けば、いつの間にか、この湖畔への立ち入りが禁止になった。
名目としては、湖水の点検ということであったが、どうもおかしい様子でもあった。
約一年という年月を費やして、中に入ると、そこは、景色が一変していた。
湖畔から、少しの距離の木々は完全に伐採されていて、かなり整備がされている。
その中に、いくつかの別荘のようなものが建てられていて、仕切られているようにも見えている。
その中で見ていると、さらにその奥に、
「このキレイな雰囲気には似ても似つかない、ボロいコンクリートの建物があったのだ」
最初は、
「廃墟かな?」
と思うほどであったが、実はそうではなく、遠くから見ると汚くて、今にも倒れそうな建物であったが、そのわりに、近づくと、綺麗にできるところはしているようで。
「できるだけのことはした」
という跡があるのであった。
「ここが使えるんだ」
と思っていたようだが、その建物に、近くのK大学の先生が来ているのを、誰が知っているというのか。
もちろん、気にして見ていれば、駐車場に、
「K大学」
と書かれているのだから、当然、そこを大学関係者が使用しているということは分かって当然だった。
その建物の中で何を研究しているのかということを知っているのは、ごく一部の人であることは明白であろう。
出入りしている人は、
「臨床心理学者」
というような人が多く、そして、どうも、その中で収容されている人もいるようだ。
見るからに。
「昔のサナトリウム」
という感じで、
昔のサナトリウムというと、同意語として、
「結核病棟」
ということである。
今でこそ、
「結核というのは、手術なしで治る」
と言われていて、
「ストレプトマイシンから始まっての、
「特効薬」
というものが数多く開発されたのが、その成果であっただろう。
何と言っても、戦時中くらいまでは、
「結核というと、不治の病だ」
と言われていたではないか。
今でいえば、
「がん」
のようなものであろうか。
そういう意味で、
「がんというのも、そのうちに特効薬が開発され、投薬で治る病気」