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果てのない合わせ鏡

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「家族による、DV」
 などというものもあるだろう。
「親による、子供へのしつけというものが、虐待になっていることを、家族は誰も分かっていないという状態で、例えば旦那が、暴力をふるっていたとすれば、その原因も様々である」
 会社での、
「ハラスメント」
 などという行為においての、ストレスの滞留が、家庭に帰るといきなり爆発するのではないか。
 その相手が、奥さんだというのは、当然のことだろう。
 さすがに、いきなり子供に行くことはないかも知れないので、暴行、虐待が奥さんの向かうと、母親は、最初は耐えるかも知れないが、どこかでそれに耐えられなくなると、その恐ろしさから、中には、
「子供をおいて、家を出てくる」
 という母親も多いだろう。
 もちろん、中には、
「子供を置いていくのは、忍びない」
 と思う人も多いことだろう。
 しかし、実際には、子供というものを考えた時、
「そもそも、父親のあの残虐な血が流れている」
 ということを考えると
「一緒に連れていくことは、恐ろしい」
 と考えるだろう。
 もし、奥さんが逃げ出すとなった場合に、どこに行くかというと、まずは、
「実家」
 と考えるだろう。
 もし、実家が難しいのであれば、友達のところということになる。
 実家だったりして、もし、そこに、
「跡取りとしての長男が、夫婦生活をしていると、そんなところに、出戻りのごとくの自分が、単独で帰って来るということは難しいのではないか?」
 と考える。
 自分が帰るだけでも、お荷物を抱えることになるのに、子供まで一緒だと、それこそ肩身の狭い思いをしてしまう。
 実家には、すでに2世帯が生活をしていれば、自分だけでも大変なのに、子供までは難しいということになるだろう。
 しかし、奥さんは、さらに、恐ろしいことを考える。
「もし、父親と同じ性格だったら?」
 と感じるのだ、
 たぶん、家族は、
「まだ子供だから」
 ということで、息子のことを許すという感覚になるだろうが、実際にはそうはいかない。
 恐ろしい性格が潜在しているとすると、せっかく非難した家で、今度は息子による禍が襲ってこないとも限らない。
 それが奥さんには恐ろしいのだ。
 子供だからという理由は、今の時代では、通用しないといってもいいだろう。
 自分が、父親の暴力から離れると、母親は、その恐ろしさに、
「家族恐怖症に陥ってしまう」
 そして、単身、実家に帰ってきたので、本当であれば、安心なはずなのに、どうもそうではないようだ。
「息子のことが気になるのか?」
 と思ったが、どうもそうではないようだ。
「自分が捨ててきた子供」
 という意識が強く、
「なるべく子供のことは考えないようにしないといけない」
 と考えるのだった。
 そう思えてくると、どんどん、家族への遠慮が、またしてもストレスに感じられ、
「なるべく、家族から孤立しよう」
 と思うようになる。
 その時初めて、
「ああ、旦那が感じたストレスというのは、こういうことなのかな?」
 と感じるのだ。
 そして、
「あの人が、暴力をふるいたくなる理由もわかってきたような気がする」
 と感じる。
 だからといって、暴力が許されるわけはない。
 それは当たり前のことであり。ただ、このままなら、自分が家族に対して何をするか分からない。
 と感じるのだった。
 一番怖いのは、
「何をするか分からない」
 という、
「限界を設けない」
 ということであった。
「あの旦那も、限界というものがなかったな」
 と感じたのは、
「あの人が暴力をふるう時のあの目だった」
 ということであった。
 その目というのが、完全に、病気の人の目であった。
 まったくのうつろな目であり、その視線が定まっておらず、
「本人も、自分が病気であるということも、下手をすれば、虐待をしているという意識もないのかも知れない」
 という意識がありながら、自分も、今同じような状況に陥りかけているのではないか?
 と感じるのだった。
 というのも、
「自分というのが、あの時の旦那の状況になっているのかも知れない」
 と思った時、ちょっと気になるのを思い出した。
 それが何かというと、
「吸血鬼ドラキュラ」
 という話であった。
 これは、ドラキュラ伯爵という人物が、若い女性の血が好物な化け物であり、自分が女たちから血を吸うと、吸われた女たちも、吸血鬼となり、最後には、
「村全体が、吸血鬼になってしまう」
 ということである。
 これが、
「一緒の伝染病」
 のようなものなのか、それとも、
「吸血鬼の持って生まれた能力なのか?」
 ということは分からない。
 しかし、血を吸われた人が吸血鬼になり、また他の人を襲うという、
「ねずみ算的な発想」
 というのは、考えただけでも恐ろしいというものだ。
 ドラキュラ伯爵が、
「最後にどうなったか?」
 ということまでは知らないが、この奥さんは、少し考えてみた。
「ドラキュラが、街で若い女の血を吸って、その女がドラキュラ化する」
 ということが最初であるが、一つ言えることといては、
「ドラキュラが一人の女の血を吸った時点で、その女はもう、自分の食料としては使えない」
 ということだ。
 それは、吸血鬼になってもならなくても同じことで、もし、吸血鬼にならなかったら、
「出血多量で死んでいるだろう」
 ということになるだろう。
 吸血鬼になるから、他の人を襲うわけで、
「ただ、そうなると、ドラキュラにとって、この現象はいいことなのか、悪いことなのか?」
 ということだ。
 そこで考えられることとして、
「女が死んでしまった方が、ドラキュラにはありがたいはずなのにな」
 と考える。
 それはどういうことかというと、
「吸血鬼がどんどん増えていく」
 ということは、
「ドラキュラにとって、ライバルがどんどん増えていく」
 ということである。
 自分が血を吸った女が、そのまま死んでくれたら、街から一人ターゲットがいなくなるだけだが、その人間が、また吸血鬼になるということは、人間にとっても、怖いことであり。
「自分を襲う相手がどんどん増えてくる」
 ということで、この発想は、ドラキュラに限ったことではなく、香港や中国などで、一時期流行ったホラーの、
「キョンシー」
 というのもそうではなかっただろうか?
「化け物に襲われると、襲われた人間も化け物になる」
 というのは、ゾンビなどでもいわれていることであろう。
 何も、
「吸血鬼ドラキュラ」
 という話だけが、
「ねずみ算」
 というわけではなさそうだ。
 ただ、どれかが元祖なのだろうが、一番引き合いに出される印象深い話というのが、
「吸血鬼ドラキュラ」
 という話なのだろう。
 そう考えた時、山南博士は、この
「ねすみ算」
 という考え方に着目した。
 人から人に伝染しているのか、それとも、人間の中に元々潜んでいる何かの本性が飛び出してくるというものなのか。
 それらを考えると、
「一種の超能力のようなもの」
 というのが、博士の脳裏をよぎるのだ。
 つまり、
「人間の脳というのは、その能力の一部しか使っていない」
 と言われていて、
作品名:果てのない合わせ鏡 作家名:森本晃次