果てのない合わせ鏡
「二人はそれぞれに、自分の表現の仕方が違っていて、そのことはそれぞれにキチンと分かっていて、しかも、黒川君は、山南君のことを、山南君は、黒川君の立ち位置というものをわかっているので、何も争うことなど必要ないとばかりに、謙虚なものなんじゃないかな」
というのであった。
「どうしてですか?」
と他の人が聞くと、
「君には分からないかい?」
というと、聴かれた人は、頭をかしげるので、名誉教授は、自分も頭を傾げながら、不思議な顔をして、
「いやいや、二人はまったく違うよね。というのは、黒川君は、天才肌で、山南君は、コツコツと研究することが得意だよね?」
というと、
「どちらも天才肌に見えますが?」
と男がいうと、
「それはね、山南君が閃きということで、特化したものを持っているからだよ」
と答えたのだ。
K大学は、この土地を以前から物色していた。
この土地においては、今までに以前から、K大学が利用してきたものもたくさんある。
例えば、今では、体育会系の合宿施設であったり、美術関係の施設なども結構あり、美術館も、K大学の生徒による個展なども開かれているようだった。
そもそも、このあたりの町は、以前から、大学施設として使われていたものが多かったようで、特に、大日本帝国時代においての大学施設というのは、
「昔の財閥系」
と結びつくことで、特に兵器開発において、大学を隠れ蓑にして、研究が行われていたものを、
「財閥の研究」
ということで、国民にはもちろんのこと、他国の諜報機関にも漏らさないようにと、気を使っていたのだ。
考えてみれば、昔の大日本帝国というものは、
「諜報活動に関しては、かなり進んでいた」
と言ってもいいのではないだろうか?
元々、日本という国は、
「欧米列強に脅迫同然に開国させられた」
と言っておいいだろう。
そもそも、日本という国は、
「貿易はしたいが、キリスト教布教」
というのを禁止したいということで、鎖国制度をとったのだ。
キリスト教が、戦国時代、いわゆる海外においての、
「大航海時代」
において、
「喜望峰からのアジアルート」
あるいは、
「大西洋からの、アメリカ大陸発見」
というものが、発見されたことで、
欧米列強による、
「キリスト教の布教」
あるいは、
「貿易の振興」
というものが、盛んになってきた。
その中で、スペインやポルトガルなどは、作戦として、
「まず、キリスト教の宣教師を送り込み、さらに、そこから、貿易船を入り込ませ、貿易を始める。その中で、キリスト教と、その国から元々あった国の宗教との間に、問題が起こると、居留民保護を名目に、宗主国が軍事介入を行い、そのまま武力にて、国を治めることで、結果、植民地とする」
ということになるのであった。
というのも、
「居留民に対しても、相手国の信教徒が、必ず迫害をしてくるのがわかっているからだ」
といえるだろう。
何しろ、もし、そのような対立が起こらなければ、先に送り込んだ宣教師が、新しく信仰するようになった人々を煽るからだということである。
どこまでが本当のことなのかはわからないが、少なくとも、信憑性のようなものはあるかもしれないだろう。
そういう意味で、
「国民をいかに洗脳するか?」
ということはこの頃から行われていたことであろう。
日本という国は、植民地にならずに済んだという、
「数少ないアジアの国」
だったのだ。
考えられることとしては、
「島国だった」
ということかも知れないが、琉球は、中国から侵略を受けた。
なんといっても、日本のその時代は、
「群雄割拠の戦国時代」
ということもあって、
「日本への侵略というのは、難しい」
ということであろうか。
それでも、幕末といわれる時代に、アメリカが日本に、
「砲艦外交」
という形で、無理矢理に開国させた。
その間に、
「尊王攘夷」
と言って、
「天皇を敬って、外国を打ち払う」
という考え方だった。
それは、長州藩、薩摩藩などの勢力が考えていたことであった。
しかし、薩摩藩は、
「生麦事件」
さらには、長州藩は、
「関門海峡における外国船打ち払い」
ということに対して、薩摩藩は、
「薩英戦争」、
長州藩は、
「四国艦隊砲撃事件」
という形で、圧倒的に敗北し、
「外国にはかなわない」
ということを痛感したことで、今度は、
「尊王倒幕」
つまり、
「天皇を敬って、幕府を倒す」
というやり方に、方向転換を行うことになったのだ。
実際に、幕府というものが、いかに曖昧で、優柔不断だったのかということを、諸藩は、痛感したことであろう。
そして、ここで成立した、
「明治新政府」
が考えたことは、
「まずは、国を富ませて、国防を強化し、さらに、外国のいいところを受け入れて、いかに海外に追い付け追い越せという状況を作ることができるか?」
というのが問題だった。
というのも、諸外国と日本は、修好通商条約をいうものを結ばされたのだが、それは、あくまでも、
「表向き」
であり、内容は、
「完全な不平等条約」
であった。
というのも、
「領事裁判権の問題と、さらには、関税の問題とが、完全な不公平であり、日本で外人が罪を犯しても、日本で裁けないということ。そして、貿易の関税も、自由に決めることができない」
というものだった。
それをどうにかするには、
「日本という国が、いかに、諸外国のような先進国になるか?」
ということが問題だといってもいいだろう。
それだけ、
「諸外国から見れば、日本は、まるで原始時代にでも見えたのかも知れない」
そこで、日本は開国後、いろいろな施設団を海外に送り、諸外国を見て回ることで、
「いかに日本という国を、欧米のようにできるか?」
と考えたのだった。
さすがに、マネだけではなかなか難しい。
しかも、日本は開国したこともあって、諸外国から狙われる可能性も多くなった。
特に問題としては、
「ロシアの動向」
だった。
「とにかく、ロシアをけん制するうえで、安全保障の観点から、朝鮮を開国させる必要がある」
ということだった。
その当時、朝鮮は、鎖国状態であったが、
「清国の属国だった」
といってもいいだろう。
清国は、まわりのいくつかの国を属国として、支配していたといってもいい。
ただ、植民地というほどの搾取はしていないということで、当時の朝鮮内部では、
「清国寄り」
という連中もいれば、
「開国をして、独立国家としての道を歩む」
という考え方もあったのだ。
結局日本は、朝鮮を、
「砲艦外交で開国させ、さらには、独立派を擁護する形で、朝鮮を支配していた」
というのだ。
ただ、これは、どうしても、ロシアの南下政策のけん制でもあったのだ。
もし、朝鮮がロシアと共同で、日本を襲ってくると勝ち目はないということだった。
何といっても、日本は、まだまだ、
「アジアの小国」
で、
「貧しい国」
というイメージだった。
そんな中で、清国と一戦交え、結果、勝利することができたことで、外国からも、少しは見直されたことで、