果てのない合わせ鏡
というものに相違ないといってもいいのかも知れない。
それを考えると、
「この世には、人間にとって、ありがたいものも、存在していれば、ありがたくないものも存在しているということになるが、もし、そのありがたくないものを、人間の力で絶滅させることができないのだとすれば、それは、絶滅させてはいけないものだ」
ということになるだろう。
絶滅させてしまうと、知らず知らずに、自分たちの食料を減らしている可能性がある。
「いつの間にか、今まで存在していた動物が、絶滅してしまっていた」
ということで、理由を探そうとしても、見つからないということになるのではないだろうか?
例えば、それが、人間にとって、恐ろしいものとして存在する、
「スズメバチ」
などはどうだろう?
「二度刺されれば死ぬ」
ということで、アナフィラキシーショックを与えるものなので、いなくてもいいはずのもの。
ということになる。
それでも、絶滅させることができないのは、ひょっとすると。
「スズメバチが滅亡することで、他の人間にとっての害のある動物が、大量発生する」
ということになるのかも知れない。
そういうスズメバチのような存在を、
「必要悪」
という言葉を使っていいのかどうか分からないが、言葉をしては、
「適切」
なのかも知れない。
そういう意味で、必要だろうがなかろうが関係なく、
「悪」
という言葉は、どういう意味があるのか
ということを考えてみるが、その定義は難しい。
そもそも、
「何にとって悪なのか?」
ということである。
同じ人間世界の中でも、
「かたやこっちの人には悪であるが、こっちの人には悪でもなんでもない」
といえるだろう。
もし、
「悪でも何でもない」
という人にとって、
「これは善なのではないか?」
ということになれば、その場合のことを、
「必要悪」
というのではないか?
と考えられるのだ。
そもそも、
「必要悪」
というものが、どういうところから来ているのか?
ということを考えると、一つの問題として、
「無駄なものなどないという考え方に由来する」
ということで、
「自然の摂理」
という考え方が、問題になるのではないか?
ということなのであった。
それを考えた時、
「世の中で大切なものは何か?」
と考える人はいても、その捉えどころの根本が間違っていると思えてくるのではないだろうか?
そんな、
「自然の摂理」
の中で、
「果たして、何の研究をしているのか?」
ということは、ある程度は表に出てきているのだが、そのことについて、ハッキリとすべてを分かっている人はいないのかも知れない。
その
「すべてをわかるということがどういうことなのか?」
というのは、
「研究というものには、はじまりがあり、終わりがあるということであり、その始まりから終わりまでの間に、いくらかの節目があるということで、その節目と節目の間が、一つのセンテンスとなっていて、それをコンテンツと考えるかどうか?」
ということである。
コンテンツの集まりが、一つの大きなテーマであり、それを、
「モットー」
であったり、
「スローガン」
といえるのではないだろうか、
それを宣伝という形で、この場合を表現するとすれば、それは、
「プロパガンダ」
といえるのではないだろうか?
それを考えると、
「それらすべてを、今の時代のネット社会の言葉」
として表現すると考えると、
「コンセプト」
という言葉で表現できるということになるのではないだろうか?
「自然の摂理」
という言葉にも、
「いくつかのセンテンス」
というものがある。
例えば、
「人間は、牛などの家畜を食べる」
ということから始まり、
「牛の食料として、草などの植物が必要だ」
ということになる。
もちろん、植物を摂取するのは、人間にも言えることだが、丑に限っていえば、
「牛の食料は植物だということになれば、その植物が育つためには、肥料が必要だ」
ということになる。
その肥料は、
「人間の排泄物」
だということになると、ここで、一つの、
「輪」
という循環機能が見えてくるというもので、前述の、
「人間にとっての無駄なものはない」
ということに繋がっていくだろう。
しかし、これが
「循環している」
ということであるがら、この循環というものは、
「人間だけに限ってのことではなく、下手をすれば、排泄物にまで、無駄なものはないという理屈が通じるのではないか?」
ということになるのかも知れない。
それを考えると、
「世の中というものは、循環にはじまり、循環に終わる」
という意味で、その理屈が分かるということになると、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
という理屈に行き着くということになるのおではないか?
と思うのであった。
「自然の摂理」
というのは、そのまま、
「循環」
ということに相違ないということであろう。
スパイラル
そんな、
「自然の摂理」
というものを研究材料とする山南博士は、今研究していることとして、
「心理学的なことと、今回研究しているっ自然の摂理が、微妙に結び付くことで、今の世お腹における諸問題が解決できないか?」
ということを考えているという。
特に、
「地球温暖化」
であったり、
「異常気象」
ということに結びつかないか?
という研究であった。
そういう意味で、
「W大学における黒川博士が研究しているものとしての、アナフィラキシーショックを使っての、サイコキネシスというものを考える」
という研究をしているが、
「K大学の山南博士は、似たような研究ではあるが、その背景はまったく違っていて、それぞれ、お互いに、似たような研究をしているということを分かってはいない」
ということであった。
山南博士も、黒川博士は、それぞれ、面識があった。
というのも、高校時代は、同じ高校だったのだ、
それも、全国でも有名な、
「理数系の学校の中でも、トップクラス」
と呼ばれる進学校であった。
そんな進学校の中でも、二人は、一年生の頃から、その才能は突出していた。
いつも、二人で、主席を争っていて、
「お互いに相手がいなければ、絶対にダントツでトップなんだけどな」
といわれるような関係だったのだが、そんな中で、名誉教授と呼ばれる先生が、二人のことを見て、
「いやいや、二人は、それぞれにいい味を出しているので、別に最初から、争うという意識などないんじゃないかな?」
ということであった。
確かに、どちらの生徒も、教授は分け隔てがなかった。
というのも、他の生徒と比較しても同じだった。
なぜ、そうなのかというと、
「二人とも、その道のプロとしては、それが当たり前だということで、意識なんかしていないんだよ」
ということであった。
それは、どういうことなのかというと、