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果てのない合わせ鏡

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「氷河期にも耐えることのできる身体を持った恐竜がいたとして、その恐竜が子孫を保つことができるだろうか?」
 ということである。
 まず、普通に考えれば、
「無理である」
 ということは、歴然としたことであり、なぜなら、
「自然の摂理」
 というものを考えれば分かるというものであった。
 というのも、
「動物というものは、食料がなければ生きていくことはできない」
 ということである、
 恐竜が生きることができる時代というのは、
「恐竜にとって。快適に生活ができる時代だったからこそ、繁栄していたのだ」
 と言われる。
 つまり、恐竜が生息でき、さらに、他の生き物が生息できることで、
「自然の摂理」
 といわれる、
「食物連鎖」
 というものがなければ、生きていくことはできないのであった。
 ということは、
「恐竜一匹しかいないということは、食料がない」
 ということを示していて、それは、
「すぐに餓死する」
 ということを示しているからだ。
 この時に言えることは、
「恐竜というものの最後の生存者だった」
 というだけのことである。
 ちなみに、この恐竜が生きていた時代というのは、
「今の地球よりも温かかった」
 ということであった。
 これが自然現象によるものなのであろうが、それを考えると、
「巨大生物が多かった」
 というのも分かる気がする。
 そして、その時代が、恐竜にとって、最適な時代だったということであろう。
 では、
「今の時代が、人間にとって、快適な時代だ」
 といえるだろうか?
 正直にいえば、
「命を守る行動を」
 ということを言わなければいけないほどの、
「危険な状態ではないか?」
 ということになる。
 ただ、一つ考えなければいけないこととして。
「果たして、この世は、人間が快適でなければいけない時代なのだろうか?」
 という疑問もある。
 というのは、
「今の地球上というところには、無数の動物が繁殖している。人間などの哺乳類から、恐竜の子孫と言ってもいい、爬虫類であったり、鳥類、魚類と、陸で生活するわけではない共存という言葉に疑問符がある動物もいれば、何も動物だけが生物ではないということで、植物や、プランクトンなどの微生物だっているわけである」
 といえるだろう。
 そんな世の中において、たぶんであるが、氷河期という時代に、果たしてどれだけの生物が生存できたのか?
 ということである。
 ひょっとすると、
「氷河期だからこそ、生存できる生物がいて、彼らの天下だったのかも知れない」
 と言えるのではないだろうか?
 同じ太陽系といっても、太陽からかなり遠いところは、
「太陽の恵み」
 というものをほとんど受けていないということで、
「土星の衛星」
 として有名な、
「タイタン」
 などは、
「氷で覆われた世界」
 だというではないか。
 それが、まるで、氷河期のような世界だとすると、想像を絶するものがある。
「氷河期というものを、自分の頭の中で想像してみろ」
 ということになると、
「まるで、南極大陸」
 あたりを想像するだろう。
 しかし、南極であったり、北極というものを想像するとなると、正直、
「想像を絶する」
 といってもいいのだろうが、それでも、ペンギンやアザラシ、シロクマなどという某物が住んでいるのだ。
 アラスカシベリアなどに生息する、
「エスキモーなる人種は、昔から、アザラシの肉を食らっていた」
 というではないか。
 そもそも、植物を接種することをしないと、
「人間は、生きていけない」
 と言われているが、そのかわりに、アザラシなどの生肉を食うことで、
「野菜で補わなければいけないものを、生肉で補うことで、生き残ってこれた」
 ということになるのだが、逆にいえば、
「生き残ることができる動物というのは、偶然というものを味方にしておかないと、生き残れない」
 という、シビアな現実世界なのではないだろうか?
 そう思うと、
「シビア」
 ということは、
「偶然」
 とは切っても切り離せないもので、
「偶然というのは、何も他力本願なだけではない」
 といえるのではないだろうか。
「偶然というものには力があり、その力を信じ、自分のものにできる生物こそが、生き残ってこれたのだろう」
 ともいえるだろう。
 人間の場合は、その偶然という言葉を表に出さず、何か他の者による、
「強力な力」
 ということで考えたとすると、それが、
「神の創造」
 ということになるのかも知れない。
 つまりは、
「人間という動物は、神によって作られた」
 ということである。
 だとすると、
「人間以外の生き物は、誰が作ったのか?」
 ということになるのだが、そもそも、人間社会というものは、
「人間至上主義」
 である。
「人間というものが一番偉く、他の動物や生物は、人間が生きるために、存在している」
 ということになるだろう。
 言い換えれば、
「他の生き物は、それぞれに意味があって存在している」
 と言われている。
「じゃあ、その意味って、何なんだ?」
 ということになるわけだが、
「生き物というのは、人間が生存するためだけに生存している」
 といえるのではないだろうか?
 この考えは、
「半分正しいが、半分間違っている」
 といってもいいだろう。
 それは、
「自然の摂理」
 ということから来ているのである。
 というのも、
「例えば、人間にとって、毒にも薬にも、食料にもならない生物がいた」
 としよう。
 その動物は、人間とはまったくかかわりがないように思えるが、
「自然の摂理」
 から考えると、
「人間が直接食べている動植物にとっては、食料になっているのかも知れない」
 ということである。
 つまり、その動物がいなければ、食料となる動物の食料がなくなり、必然的に、人間の食料が減ってくるということになるわけだ。
 さっきのエスキモーの話ではないが、
「人間というものは、食料になるものがあるだけでは、生存していけるわけではない」
 ということである。
 その意味がどこから来ているのかというと、
「食料を摂取する」
 ということは、生きていくための栄養を摂取するということになる。
 人間の場合は、食料が偏ってしまうと、長生きできないということになっていて、
「栄養のバランスが崩れると、すぐに病気になってしまったり、さらには、死んでしまったりするということである」
 つまりは、
「食料になるものが、バランスよく、人間を生かすだけの量、なければいけない」
 ということで、
「人間にとって、無駄なものは、この世にはない」
 ということなるのだろう。
 ただ、そのムダではないとしても、中には、
「人間に害を与えるものだって存在している」
 といえるだろう。
 病気の元になるものだって普通に存在しているわけだが、それも、人間の食料になる堂宇物にとって必要なものなのかも知れない。
 だから、地球上には、無数の動物が存在している以上、それぞえの生物の因果関係などから、
「無駄のように思える、百害あって一利なしと呼ばれるものでも存在しているということは、何か、回りまわって人間のためになるものである」
作品名:果てのない合わせ鏡 作家名:森本晃次