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果てのない合わせ鏡

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「それはまるで、フランケンシュタインのようではないか?」
 と思えたとしても、それは無理もないということである。
 フラン系シュタインのように、雷などの力で、命が吹き込まれただけではなく、さらに、
「ロボットを狂わせる」
 ということで、せっかく入っている人工知能を電気で破壊され、その活性化の行き過ぎから、
「人間のような」
 いや、
「人間らしい」
 というような頭脳を持ってしまったことが、大きなショックとなって、今でも、
「フランケンシュタイン症候群」
 ということで、大きな問題になっているのだ。
 だから、今回目の前にあるものは、それこそ、
「いかに、怪物化させないか?」
 ということであった。
 しかし、今の時代にこそ、ロボットであったり、フランケンシュタインのようなサイボーグが必要なのかも知れない。
 それは、
「人間を凌駕するような頭脳の持ち主でなければいけない。しかも、その頭脳は、間違っても人間を傷つけてはいけない」
 ということになるのだ。
 そんなことを考えていると、
「今の人間には、地球滅亡という大きな阿テーマあがああり、それを何とかしないといけない」
 と、真剣に考えている人もいるだろう、
 そういう思いで、取り組んでいる人には、真摯な気持ちで、
「見えなかったものが見えてきた」
 といってもいいだろう。
 その時に、黒川博士が考えたのが、
「フラン系シュタインほどのやりすぎにならないような電気を発生させることは、今までのような、発電を使うと、結局、そこから生まれるものは、怪物でしかない」
 ということであった。
 そこで、博士が注目したのが、
「アナフィラキシーショック」
 なのであった。
「人間を死に至らしめるような毒と戦う抗体、これほど、人間にとって恐ろしいものはない」
 といえるだろう。
 しかし、これを、
「限りなく、限界に近い」
 というところでの、
「寸止め」
 というものを行うことで、
「いかに、世の中をうまく回していけるか」
 ということしか考えていない連中の目も覚まさせることができるかも知れない。
 という、一種の、
「いい方での副作用」
 をもたらすのではないかと思えた。
 しかし、この、
「アナフィラキシーショック」
 というものに対して、手放しで歓迎できるものではないということを少し考えるようになったのだ。
 何といっても、そのショックは、
「ハチに二度刺された時の、致死率」
 というものに匹敵するのだから、
「一歩間違えると、死と背中合わせだ」
 ということになる。
 そこで博士は、
「死んでしまった人が蘇生できるという何かがなければいけない」
 とも考えるようになった。
 その蘇生というのは、
「一度死んで、生き返る」
 ということで、
「死ぬ時のエネルギーを蓄えておいて、その貯えたエネルギーで、今度は蘇生させる」
 ということである。
 しかし、それは時間との闘いということで、
「死後硬直が終わってしまうと、もう、戻すことはできない」
 ということで、できるとすれば、
「数時間しかない」
 ということであり、
 これも、
「ハチの毒の血清」
 と同じくらいの期間なのではないかということであった。

                 自然の摂理

 K大学においての山南博士は、それまで大学内で行っていた研究が、
「大学内だけではできない」
 と言いだしたのが、約2年くらい前だっただろうか。
 その頃は、それまで研究していたことが、
「理論的には可能である」
 という、研究においての、
「ちょうど中間」
 というくらいのところに差し掛かっているということを自分でもわかっていた。
 そういえば、昔から、
「百里の道は九十九里を半ばとす」
 などという言葉があるように、進んでいく時は、
「絶えず、後ろを気にするようにする」
 ということを、山南博士は気にしていたのだ。
 もちろん、
「後ろばかりを気にしていては、前に見えるはずのものが見えてこないかも知れない」
 ということを考えるようになってはいたのだが、後ろを気にするのは、
「自分の成果を確認するうえで、欠かせないことだ」
 と思うようになり、さらに、最近は、
「百里の道は九十九里を半ばとす」
 という言葉が気になるようになると、ただ、前ばかりを見ていることが、却って、自分が進んでいる道から無意識に外れてしまいそうになることを、抑止してくれるということに気付き始めたのだった。
 それを考えると、自分の中で、急に、目を瞑ると、見えてくる光景があった。
 それが二つであることに気付いてきたのだが、一つは、
「つり橋の上にいる自分」
 だったのだ。
 その場所というのは、ちょうど、断崖絶壁の場所で、以前にも行ったことがある場所としてイメージしたのが、昔から、
「断崖絶壁といえばこの場所」
 ということで、さらには、
「自殺の名所としても言われている」
 という、
「北陸の東尋坊」
 であった。
「これこそ、大自然の営みによって育まれ、海と谷間を流れる風の影響を受け、あのような形の、断崖絶壁が出来上がったのだ」
 などという人もいるかも知れない。
 しかし、ちょっと冷静に考えれば、
「あれだけのものが、そんな波や風だけで、あのようなものをいくら長い年月がかかったとしても、できるわけがない」
 と考えるのは、当たり前のことではないだろうか?
 きっと、ここに来た人も、同じ考えではないだろうか。
 もちろん、最初は、
「ああ、自然の威力って、無限で恐ろしいんだ」
 ということであるが、それを認めてしまうと、
「これほど、恐ろしいことはない」
 といえるだろう。
 今、世界中で問題になっている、
「地球温暖化」
 をはじめとした、異常気象などによる、
「地球滅亡の青写真」
 というものである。
 地球に限らず、
「形あるものは必ず滅びる」
 という考えは、何も地球に限ったことではない。
 地球がかつて、そう、どれくらい前のことになるのか分からないが、
「恐竜」
 などがいた時代というものを考えてみよう。
 巨大生物が地球を支配していたという時代である。
 この時代になってくると、本当に怪獣が支配している時代で、ほとんどの動物は巨大である。
 そもそも、恐竜というのは、
「爬虫類」
 といっていいだろう。
 恐竜というと、今生きている生物の先祖だと考えると、二本足で立ってはいるが、種類にもよるのだろうが、見ていると、まるで、
「カメレオン」
 であったり、
「イグアナ」
 の類の先祖ではないかと思えるのだ。
 となると、今の大きさのカメレオンやイグアナの、十数倍の大きさだったといってもいいのではないか?
 もちろん、
「滅んでしまったと言われる恐竜の子孫が、今の時代にいる」
 という発想が、本当に正しいものなのだろうか?
 ということである。
 基本的に、
「恐竜は、氷河期が来たことで、滅んでしまった」
 と言われている。
 要するに、
「誰も、正損することができない状態だった」
 といえるだろう。
 もし、恐竜の中に、突然変異として、
作品名:果てのない合わせ鏡 作家名:森本晃次