疑心暗鬼の交換殺人
というものの中には、虐待や、苛めが原因ということも少なくはないだろう。
いつ頃からなのか、
「コンプライアンス違反」
というのが叫ばれるようになったのは、
「精神疾患に陥る社員が多い」
ということも、一つの要因であろうが、それだけではないだろう。
しかし、この精神疾患という問題は、
「許されることではない」
ということで、
「断固として社会的には糾弾されるべきではないだろうか」
実際に、今でも、
「精神が弱いから、病気になるんだ。しっかりしていれば、大丈夫なんだ」
と、言っている人もいるだろう。
しかし、そんなことを思っている人間に限って、そういう連中が精神疾患に陥ると、まわりからは、
「自業自得だ」
と思われるかも知れない。
しかし、なってしまうと、やっと、
「ああ、俺たちが悪かったんだ」
といっても、後の祭り、世の中というのは、そんなに甘いものではないということで、
「ミイラ取りがミイラになってしまった」
というようなことでも、
「因果応報」
として、被害に遭っていた人たちからみれば、容赦ないということになるのであろう。
それを考えると、
「コンプライアンス違反と言えることで精神疾患になるというのは、誰にでも起こることだ」
というのを、思い知る必要がある。
ということである。
もっといえば、精神疾患になってしまったということで、
「かわいそうだ」
とは誰も思わず、
「因果応報」
として、
「ざまあみろ」
と言われるに違いないのだった。
だから、日ごろから、
「明日は我が身だ」
ということでいないと、なってしまうと、どうなるかというのは、自分が一番分かっているのではないか。
なぜなら、
「自分たちの目の前で精神疾患に陥っている人がいるのを、見てみぬふりさえしていれば、やっている方には、罪の意識もなくなるだろうし、マヒした感覚のおかげで、必要以上のことは言わないだろう」
ということであろう。
しかし、精神疾患というものを、バカにしているのだから、なった人間もバカにしている。
つまり、自分がなってしまうと、他の人であれば、中には、
「かわいそう」
という、同情もあるだろうが、自分たちにはない。
それを苛めたり、コンプライアンス違反をしている連中は分かっているのだろうか。
人それぞれなのだから、人によっては、
「意識している」
という人もいれば、
「意識していない」
という人もいる。
だからこそ、
「状況をしっかり理解しないと、病気を治すどころか、誤診をしてしまい、さらに最悪な状態にすることになるかも知れない」
ということだ。
それこそ、
「フランケンシュタイン症候群だ」
といえるのではないだろうか?
この、
「フランケンシュタイン症候群」
というのは、一口でいえば、
「理想の人間を作ろうとして、怪物を作ってしまった」
というフランケンシュタイン博士であったが、ここには、いろいろな教訓が含まれているといってもいいだろう。
「理想の人間を作る」
というのは、
「人間にはできないことである」
ということで、
「うまくできないことは当たり前だ」
という、
「無謀なことをしようとしたら、そのしっぺ返しを食らう」
ということであろう。
もう一つは、
「人間が人間を作る」
ということが、まるで、
「神をも恐れぬ暴挙」
ということで、それが、人間にはおこがましいという発想になり、まるで聖書の中に出てきた、
「バベルの塔」
のような発想になるのではないだろうか。
「神様に近づこうとして、それが、神になるという野望を持っているということで、それこそおこがましい」
ということから、
「神の怒りを買う」
という結末になるのであった。
どちらにしても、
「人間には人間としての度量があり。それを超越しようとすると、撃たれてしまう」
という、いわゆる、
「出る杭は打たれる」
ということになるのであろう。
しかも、
「フランケンシュタイン」
というのは、人間が作ったものであり、これは、
「生き物なのか」
あるいは、
「サイボーグのように、半分は人間なのか?」
あるいは、
「完全なロボットなのか?」
ということが問題ではないだろうか?
というのは、
「そのどれかによって、物語は、それぞれのパターンで作ることができるだろう」
と思えた。
その時代に、ロボットやサイボーグなどという発想があったのかどうかが問題であるが、今は。
「フランケンシュタイン症候群」
ということで、それぞれに一つの物語があってもよさそうな気がする。
それを一つの話にしてもかまわないが、果たして、どうなるのか、楽しみな気がする。
それこそ、
「菌とウイルス」
などのように、
「似て非なるもの」
という発想に近いのかも知れない。
そもそも、
「人間と、ロボットと、サイボーグ」
という発想であるが、
「サイボーグ」
というのは、
「元々が人間で、人間の手によって、改造され、身体や臓器は、ロボットのような手作りなのだが、脳だけは、人間から委嘱した」
というものであったり、
「内臓だけが、ロボットのようで、肉体は、何かの薬品で、強靭で半永久的に持つ」
というものではないかという発想である。
これは、
「不老不死の発想と同じではないだろうか?」
肉体が、半永久的に生きるというのは、肉体を貪ることになる、内臓を、人工のものにして、さらに、強靭いしているということからであろう。
この発想が、
「サイボーグ」
というもので、どちらも、脳だけは生身なので、
「死なない人間」、
「不老不死の人間」
というものが、サイボーグだといっても過言ではないだろう。
もちろん、身体全体がロボットで、脳だけが人間だというサイボーグというのは、人間がロボットのようなものを作るとすれば、
「一番容易なのではないか?」
といえるのではないだろうか。
もちろん、
「頭脳と身体を意思伝達が、人間のようにうまく行く装置が開発された」
ということが前提ではある。
基本的に、人間が、
「ロボット開発」
というものを行っているというのは、
「人工知能」
であったり、
「電子頭脳」
と呼ばれるものを装着することで、すべてが、人工というものが、
「完全なるロボット」
といえるだろう。
これに関しては、いろいろと問題がある。
そもそも、この話の主題となっている、
「フランケンシュタイン」
という問題が絡んでくるのだ。
「フランケンシュタイン症候群」
というのが、最後には、
「人間に歯向かう」
ということになるので、それは、
「絶対に避けなければいけない」
ということになる。
それで、今から半世紀ほど前に、SF小説家によって提唱された、
「ロボット工学三原則」
というものが問題になるのだった。
この三原則というのは、
「決して、人間のためにならないロボットを作ってはいけない」
ということで、いわゆる、
「戒律のような回路」
を、ロボットに組み込むというものであった。
何と言っても、
「人間を傷つけてはいけない」