小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

疑心暗鬼の交換殺人

INDEX|7ページ/18ページ|

次のページ前のページ
 

 「部長と一緒にいる」
 ということよりも、
「一緒にいられる」
 という穂が、強かったようだ、
「一緒にいる」
 というだけでは、その思いが、
「招いた結果」
 というわけではないように思うのだ。
「一緒にいる」
 というのは、あくまでも偶然の産物であり、
「望んだこと」
 なのかも知れないが、あくまでも、結果論を口にしているだけである。
「一緒にいられる」
 というのは、完全に望んだことであり、
「偶然」
 というわけではなく、思惑が達成されたということで、
「少なくとも、気持ちに強いものがあった」
 ということになるのであろう。
 では、
「どちらが癒しというものなのだろうか?」
 ということを考えてみたが、
「一緒にいられる」
 という方ではないかと思えた。
 本来であれば、この言い方は、受け身の形なのに、自分の意識が望んだことということで、
「無意識だった」
 といってもいいことであろう。
 だが、美術に対して親権に取り組むようになって、部長と。、
「一緒にいられる」
 という気持ちが微妙に感じられるようになったのは、
「部長との距離」
 を感じたからだった。
 部活で、
「描いている絵が、自分の中で、納得がいく」
 ものになってきたことで、つかさとの間に、
「適当な距離感」
 を感じたのだ。
 その距離感は、
「違和感」
 だったのだ。
「近づけば近づくほど、相手が離れて行く」
 あるいは、
「こっちが離れれば、向こうがついてくる」
 というその距離は、お互いに、
「交わることのない平行線」
 というものを描いているようで、
「永遠に交わることはないんだな」
 と思うと寂しい気がしたが、どこか、ポッカリ開いたはずの穴が、どこにあるのかすら分からない状態にすぐになっていたのだ。
 というのが、
「妹のいちかの存在」
 だったのだ。
 いちかの目は、小学生の頃までは、自分に向いていた。
 いや、
「向いていたはずだった」
 といえるだろう。
 それがあまりにも自然なことだったので、違和感がなかったのだが、中学に入って、癒しを与えられる部長と、
「交わることができるかも知れない」
 と感じたが、それが錯覚だったと分かった時、
「自分には、妹がいる」
 と感じた。
 まさか、
「部長の代わりになる」
 などということを感じたわけではなかった。
「部長とは、明らかにいちかは違うのだ」
 ということだったのだ。

                 フランケンシュタイン症候群

 世の中には、
「冗談じゃ済まされない」
 というようなことは、結構あったりする。
「精神疾患の人に、その病気を持った人の悪口を言ったり」
「人のいうことを信じやすい人を使って、自分の言いなりにしたり」
 あるいは、
「断ることができない相手に対して、それを盾に、可能な限りの蹂躙をしたり」
 などと、いう恐ろしいことをしている人がいたりする。
 最近では、そういうことに対して、会社などでは、
「コンプライアンス違反」
 ということで、
「立場を利用した理不尽な苛めなどを撲滅する」
 ということが主流になっている。
 特に、精神疾患となった人間のほとんどは、上司や親、先生などからの、
「絶対的な立場」
 を利用しての、
「ハラスメント」
 というものから、なった人が多いという。
 特に、部下に対しての。
「全否定」
 などというのは、少し続いただけで、受けた人は、精神疾患に陥り、
「仕事ができない」
 というだけではなく、一人暮らしであれば、食事を作るなどの当たり前のことができないような、
「大鬱状態」
 になることも少なくはない。
 特に、
「双極性障害」
 などと言われる病気であれば、
「双極」
 という意味で、
「躁状態と鬱状態が交互に襲ってくる」
 ということが多いらしい。
 よく、躁状態を伴わない、
「うつ病」
 と誤診されることが多いが、
「双極性障害」
 というのは、
「脳の病気」
 なので、医者が処方した薬を服用しないと、余計に鬱状態がひどくなるというのだ。
 この双極性障害で怖いのは、
「鬱状態」
 というよりも、鬱状態から躁状態に変わろうとする時の、
「混合状態」
 だという。
「鬱状態はまだ残っている状態で、躁状態に変わっていくのだが、その時、それぞれの悪いところが混同することがある」
 というのだ。
 というのは、
「鬱状態の死にたいなどという意識がまだ残っている」
 という中で、
「躁状態の今なら何でもできる」
 という怖いもの知らずの状態が、混合してしまうと、
「死ぬということも怖くない」
 と考えるようになり、ただでさえ、精神が不安定なところなので、
「死んでしまうとどれだけ楽か?」
 と思っているのだから、ふとしたことで、自殺をしてしまうということになりかねないといえるだろう。
 それが、
「双極性障害」
 という病気の怖いところで、しかも、他の病気を併発することも多いので、何かがあって出てくる症状はその時々で様々、
 ということは、
「想定外の行動を起こしたりして、その行動パターンは、予測不可能」
 ということになるに違いない。
 それを思うと、
「双極性障害」
 などの精神疾患は、もちろん、持って生まれた、
「生まれつきというのもあるかも知れない」
 しかし、そのほとんどは、小学生くらいに発症することが多いと言われ、
「苛め」
 や、
「DV」
 などが、その原因だったりもする。
 特に最近多いのは、
「DV」
 と言われる、児童虐待というもので、親が、
「しつけ」
 という言葉を隠れ蓑に、
「自分のストレスのはけ口を子供に向ける」
 というものである。
 そういう親のほとんどは、
「自分の親から厳しく育てられた」
 と言いたいのだろうが、
「あなただって、その時、自分の子供には、同じような目に遭わせたくないと思わなかったんですか?」
 と言われるのだろうが、
「子供の頃はそう思っていたんだけどな」
 というだろう。
 ということは、
「そうは思っていたが、何かの原因で、それが変わってきた」
 ということを言いたいのであって、それは、完全な、
「他人事」
 であり、そのまま。
「自分が悪いんではない」
 という、
「責任逃れ」
 ということになるのであろう。
 確かに、自分が悪いということであれば、そもそも、
「虐待ということも、苛めもなくなるのではないか?」
 と思えるのだ。
 しかし、
「悪い」
 と思っていても、やめられるのであれば、これほど社会問題にはなっていないかも知れない。
 ただ、逆に、
「これが、少数派であったとすれば、もっと恐ろしいことになるのではないか?」
 と思うのであった。
 というのは、
「少数派であればあるほど、表に出ないということで、被害者は絶対に泣き寝入りであり、加害者は、さらに増長するに違いない」
 ということであろう。
 問題になった時には、
「すでに、第一段階は終わっている」
 ということで、表に出ることもなく、
「児童の、原因不明の病気」
 ということになったり、こちらも、原因不明の、
「自殺」
作品名:疑心暗鬼の交換殺人 作家名:森本晃次