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疑心暗鬼の交換殺人

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 兄の頼朝と、朝廷で一番の権力者であった、後白河法皇との間の、
「政治的な駆け引きに巻き込まれた」
 といってもいいだろう。
 だから、東国の武士団をまとめ、策士である後白河法皇に操られ、
「朝廷を利用しよう」
 と考えたことが、
「ミイラ取りがミイラ」
 になってしまったことで、結局最後は滅んでしまった平家一門を見ると、京に上る弟を見て、危険に感じていたとしても、無理もないことだろう。
 頼朝とて、
「法皇がどうのというよりも、東国を固めるということに必死だっただけのことなのかも知れない」
 ということではないだろうか。
 それでも、
「平家追討」
 に手柄を立て、そして、京都に凱旋してきたことで、 有頂天になっている人間に対して、国の元首と言ってもいい天皇家の中でも一番の権力者から、
「褒められた上に、褒美の官位を頂いた」
 ということであれば、兄が言っていた、
「勝手に官位をもらってはいけない」
 と言われていても、
「法皇が授けてくれるというのを無下に断ることもできない」
 ということで、
「もらったとしても、それは源氏の権威があがることだから、兄としても、喜ばしいことだ」
 ということになるだろう。
 しかし、義経が、
「検非違使に任ぜられた」
 ということを知った頼朝は怒り狂った。
 それは、義経の思惑にはなかったことだ、
 きっと、
「褒めてくれる」
 と信じて疑わなかったからだろう。
 それを思うと、
「兄は、自分の活躍を妬んでいる」
 と思ったとしても、無理もないことだ。
 しかし、歴史の史実としては、そうではなく、
「武士団の棟梁」
 である自分のいうことを聞かなかったというのが、弟だったということで、逆に弟だけに、許してはおけなくなったということが、頼朝としては、ジレンマだったのかも知れない。
 だが、これはあくまでも表向きのことで、本当は、
「弟への嫉妬心」
 というものだったのかも知れない。
 ただ、その嫉妬心をいうものを隠すだけの状況であることは、火を見るよりも明らかであった。
 そのために、頼朝も、ジレンマにはあったが、自分の汚い部分を大っぴらに表に出さず、当たり前のこととして、見られることは、よかったのかも知れない。
 そんなことを考えていると、
「今回の、
「投函事件」
 と、
「コソ泥事件」
 と、それぞれに、事件としては、大したことはなかった。
 というのは、
「コソ泥事件」
 といっても、何か、盗まれて困るものがなくなったというわけではなかった。
 ただ、それも、本人たちがそう言っているだけで、何が、警察に言えないものがあり、それが盗まれたということも考えられるし、
 もっといえば、
「本当は何も盗まれていないのに、何かを盗まれた」
 ということで事件として扱ってもらうということが目的だったとすれば、これも、奇抜な発想ではあるが、それこそ、
「頼朝と義経の関係」
 の裏に何かが潜んでいて、それは、
「表に出すことのできないもの」
 ということになるのかも知れない。
「卑怯なコウモリ」
 のお話だって、実際に戦が終わって、平和が戻ってきたことで、やっと、コウモリというものが企んでいたことが分かったというものだ。
 だが、これだって、
「コウモリが必死で生きよう」
 としている証拠である。
「頼朝のジレンマ」
 ということに対しても、
「自分が、京都に行って、直接平家を討つことができなかった悔しさのようなものがあれば、法皇から褒美をもらうということは、義経に限らず、他の人間でも同じことだっただろう」
 といえるのではないか。
 たまたま弟だったことで、
「判官びいき」
 などという言葉が生まれるくらいになってしまったことが、よくよく、一人の人間のエゴや嫉妬が深かったということを示しているのだろう。
 そんな中において、
「何かわざとらしい、目立つような行動というのは、その目的がどのような主旨か?」
 あるいは、
「その大小にかかわらず、嫉妬が絡む話というのは、日本人は結構食いついてくろ」
 嫉妬に対して、言われているよりも、同情的な考えの人も少なくないような気がしているのだ。
 嫉妬というのは、今では、基本的に、
「男女間での、三角関係というもの」
 から生まれたり、
「褒美を目の前で、自分が受け取れない状況なのに、皆で褒めたたえているのを見るのが、居たたまれない」
 という時に感じるものだろう。
 嫉妬というのは、確かに、
「自分が参加しているわけではない大会で優勝などをすると、学校では、朝礼などで、わが校の誇りなどと言われ、ちやほやされてる本人はおろか、褒めたたえる言葉を投げかけた先生であったり、それを見ている、その他大勢の生徒は皆、その偉業に対して、素直に敬意を表している」
 しかし、それでいいのだろうか?
 何も自分が褒められているわけではない。
 先生からすれば、
「自分の生徒が偉業を達成した」
 というだけで、自分が褒められているわけでも何でもない。
 生徒が褒められているだけで、
「俺には関係ない」
 といって、放っておくわけにはいかないのが、
「先生という立場なのだ」
 しかし、人が褒められているのを見るのが居たたまれない状態なのに、なぜ、褒めるということを、
「この自分がしなければいけないのか?」
 ということを考えると、その状況が。
「自分を情けなく思わせる」
 ということになるのだ。
 つまりは、
「ピエロ」
 つまりは、
「道化師」
 となって、自分に対してどう思えばいいのかを分からなくさせるのだ。
「羨ましい」
 と思ったとしても、自分にはどうすることもできない。
 「生徒限定の大会」
 に先生が出るわけにもいかず。ただ、大会で表彰されているものを、
「羨ましい」
 という目で見るだけしかできないということなのだ。
 つまりは、
「表彰されている」
 ということ自体に嫉妬を感じるのか、それとも、
「自分にはなれない」
 という物理的なものへの苛立ちなのか、それとも、
「そんな自分が褒める立場にあって、羨ましいということを表に出さず、ただ、先生としての立場を貫かなければいけない」
 というのはありなのだろうか。
 だから、
「俺というのが、そのどれに当て嵌まるのか?」
 ということが分からないということに、苛立ちを覚えているのかも知れない。
 それは生徒たちでも同じことで、だが、彼らには、
「羨ましい」
 と思えば、
「じゃあ、来年参加してみればいいんだ」
 ということで、期間も十分にある。
 そこで練習し、
「人前に出ることが、どうしてもできなかった」
 という人は、その期間で何とか克服することができたとすれば、それは羨ましいということになるのではないだろうか?
 それを思うと、
「生徒は、まだマシなのかも知れない」
 と思うのだった。
 警察の中でも、
「変わり種」
 という異名を取っている、桜井刑事なら、その気持ちは分かることだろう。
 だから、この映像に写っている男たちは、
「どんな気持ちでいるのだろうか?」
 ということであった。
「コソ泥グルーう」
 というのは、
 それほどの人数がいるわけではなく。
作品名:疑心暗鬼の交換殺人 作家名:森本晃次