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疑心暗鬼の交換殺人

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 最近では、防犯カメラに映った映像があっても、それで個人を特定することは難しい。しかし、
「犯人がいて、何かの犯行を犯している」
 ということは分かるのだった。
 たとえば、死亡推定時刻から、辻褄が合う時間にそのあたりにいれば、そこに写っている連中は、
「皆容疑者だ」
 ということになるだろう。
 しかし、今では昔のように、
「マスクをして、鳥打帽や、野球帽などを目深にかぶっていれば、こいつは怪しいということで、職質したり、却って目立つ」
 というものであったが、今は、
「マスクに帽子は、今では当たり前の恰好だ」
 ということになるのだ。
 なぜなら、
「世界的なパンデミック」
 があったことで、
「マスク着用が義務」
 のようになり、帽子なども当然のようにかぶっているので、昔なら、
「何かの犯人ではないか?」
 と思われるような恰好は、却って目立たないようになってきたのだった。
 だから、防犯カメラに映ったとしても、何か特徴のあるものがなければ、その人と特定することはできないだろう。
 たとえば、名札があったとしても、違う人の服をわざと着ているということだってあるだろうし、車での移動としても、レンタカーや、盗難車であれば、特定は難しい。
 犯人も分かっているだろうから、今の時代は、逆に犯罪を起こしやすい時代なのかも知れない。
 そこに持ってきて、
「個人情報」
 などの、
「プライバシーの問題」
 が絡んでくると、さらに特定するのが難しくなる。
 こうなると、逆に、アリバイ工作がしにくくなるということにもなるが、犯人側としても、特定されないということは、リスクヘッジという意味では、いろいろ計画を立てるにも、パターンを豊富にできるであろう。
 そんなことを考えていると、
「盗難に関しては、新たな情報が出てくる」 というわけではなかったが、
「脅迫状という件」
 に関しては、
「いかにも怪しい男が、ちょうど申し立ててきた人が見つける寸前くらいに、まわりを気にしながら投函している」
 のだった。
 だから、その行動が、わざとらしくも感じられ、
「防犯カメラで見られることを分かっていて、やっているんだ」
 と思えてならなかった。
 なぜなら、その男は、わざと防犯カメラの方に眼を向けた。
 それも、きょろきょろすることなく、視線をいきなり、防犯カメラに向けたのだ。
 要するに、
「防犯カメラの位置を、最初から分かっている」
 ということなのであった。
 こうなると、さすがに刑事の方も、
「コソ泥」
 のような連中よりも、手紙を投函にきた、何かわざとらしいこの男の方が気になるのであった。
「コソ泥」
 の方が、明らかに
「事件を起こしている」
 のだから、そっちを中心に見なければいけないのだろうが、
「刑事らしくない刑事」
 と言われている桜井刑事は、この怪しい状況に、興味をもって、モニターを見ていたのだった。
 写っている画像を見ると、確かにまわりを意識しているようだが、それは最初だけで、あとは、まったく気にしているという素振りはなかった。
 集合ポストを確認し、普通にポストに投函している様子は、悪気はないどころか、堂々としている感じさえ受ける。
 その様子を見ていると、犯人というには、あまりにも、堂々としている。そして、その様子が堂々としているので、最初は分からなかったが、
「コソ泥」
 の中にいる一人によく似ていることに、次第に気づくのだった。
「コソ泥事件」
 の方が新しく、
「投函事件」
 というのが、それから少し前だったのだが、コソ泥事件の時の、
「よく似た男」
 というのは、まるでおどおどしていて、それだけに却って目立つのであった。
 そんな様子を見ていると、
「本当は同一人物だということを知られたくないだろうに。これじゃあ、まるで、わざと目立とうとしているようで、どうも行動が矛盾しているような気がする」
 というのは、投函事件の時の態度が、
「落ち着いている時と、おどおどしている時の態度が、両極端に見えるからだ」
 ということだ。
 これだけ極端な態度をとると、それ以外の態度の時が、どんなに飾ったとしても、その行動の範囲内だということで、
「どんな態度を取ったとしても、その感覚はすぐにバレてしまうということを分かっていて、わざとやっているとしか思えない」
 と感じた。
 昔、イソップ寓話の中にあった、
「卑怯なコウモリ」
 という話を見たのを思い出した。
「鳥と獣が戦をしていて、鳥に対しては。自分は鳥だといい、獣に対しては、自分は獣だといって、逃げ回っていたコウモリは、戦が終わって、仲直りした鳥と獣の間で話題になり、卑怯者だということで、人知れず、孤独に、夜のとばりが下りてからしか行動しないようになった」
 ということであった。
 この話には、いろいろな発想が含まれているだろう。
 額面通りに受け取れば、
「八方美人でいれば、結果、どちらからも信用されず、最後には孤立してしまう」
 ということになる。
 他の考え方として、
「彼は、その性質上、臆病で協調性がないので、それでも生き残るために、あのような身体をしていて、卑怯な態度を取ったのは。無理もないことだ」
 という考えである。
 それが、一種の保護色のようなもので、本能的に、逃げるためには、何でもするということで、助けを求えることができない性格の表れだということであろう。
 また、この話自体が、
「コウモリを悪い動物だ」
 という方法ではなく、むしろ、
「生き残るためであれば、恥も外聞もなく、何をやってもかまわない」
 ということである。
 それは、動物の本能としては当たり前のことであり、もっといえば、
「生き残るために、何かをしてでも、生き残る」
 というしたたかな考えこそが、美徳ではないか
 といえるのではないだろうか?
「人間だって、戦国時代の群雄割拠の時代に、まわりが、戦争をやっていて、自分がその中に取り残される形となったことで、何とかまわりを欺いてでも生き残るというやり方を取った、真田昌幸という武将は秀吉から、「表裏比興の者」と呼ばれた」
 というのだ、
 表裏比興とは、狡猾、老獪、策謀家といった意味が込められており、卑下する言葉というよりもむしろ褒め言葉として使用されているということであった。
 これは、
「コウモリの話であっても、真田昌幸の話であっても、書く字や意味の違いこそあれ、
「ひきょう」
 という尾鳥羽がかぶっているというのは、偶然としては面白いことだといえるのではにいだろうか
 そんなことを考えていると、
 だから、日本人には、どうしても、昔から、
「判官びいき」
 という、
「力は強いのに、政治的な問題から、策を弄する相手の前では、あまりにも素直すぎて、そのまわりの策略から潰されてしまう、そんな人間を尊いという考えの下、贔屓目に見てしまう」
 ということであった。
 ここでいう、
「判官」
 というのは、その人物の位のことで、この位を持っていた、
「源義経」
 を指しているのだった。
 天才的な戦術家であった義経であったが、政治的なことに関しては、実に疎かった。
作品名:疑心暗鬼の交換殺人 作家名:森本晃次