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影のある犯罪計画

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「今の探偵小説というものの、トリックは、すでに出尽くしていいて、あとはバリエーションの問題だ」
 という人がいた。
 それがどの時代だったのかというと、日本でいうところの、
「探偵小説黎明期」
 と言われ、さらに、世情が怪しくなってきて、次第に、
「出版物」
 などに、規制が入ってきた時期であった。
 その時代にも、確かに、いろいろな探偵小説作家がいて、
「本格派探偵小説」
 あるいは、
「変格派探偵小説」
 と言われていた時代があった。
「本格派」
 というのは、
「謎解きなどの推理を、探偵が解いていくというところの軽快さをストーリーの柱とした小説だ」
 と言われる。
 そして、
「変格派」
 と呼ばれるのは、それ以外の探偵小説だという。
 そもそも、探偵小説の定義もハッキリと知らない人からすれば、
「さらにややこしい発想だ」
 ということになるだろう。
 もっといえば、
「猟奇犯罪」
「都市伝説が絡むようなホラー色豊かな小説」
「耽美主義や、SM嗜好と言った、犯人などが、異常性癖を持っていたりするという小説など」
 というものが、一種の、
「変格派」
 と呼ばれるものだという定義をした作家がいたという。
 ただ、
「本格派の中には、変格派小説を書く人もいるし、その逆もある」
 あくまでも、
「しいて言えば」
 というくらいで、一つの小説の中にだって、
「耽美主義や、変質者の犯行などと思わせておいて、実は巧妙に仕組まれたトリックだったり、犯人の計算を、名探偵が追い詰めていく」
 というような、
「変格派と見せかけて、実は本格派だった」
 という小説もたくさんある。
 むしろ、出尽くしたトリックをいかに使って、バリエーションを生かすか?
 ということになれば、当然、こういうやり方が、小説界では、普通にあるのではないだろうか?
 だから、一概に。
「変格派と本格派のどちらかに固める必要などない」
 といえるであろう。
 探偵小説家の中には。
「私は変格派と言われているが、そういわれるのは心外だ」
 などと言っていた作家もいたりする。
 ただ、どちらも、立派な探偵小説であり、
「変格派の人が、本格派をバカにしたり、その逆というのは、本当はありえないのではないか?」
 と考えるのであった。
「耽美主義」
 というのは、
「モラルや道徳よりも何よりも、優先順位は、美の追求という」
 ことが、その定義だという。
 だから、犯罪などという、モラルや道徳が崩壊した出来事と耽美主義という考えは、結びつくのではないかということも言えるであろう。
「変格探偵小説」
 というものの中には、そんな耽美主義的な話も多い。
 そして、その耽美主義として、
「SM」
 などという変質者的な趣味趣向を持った人が多いということで、そもそも、
「SMというものは、性的趣向から、美を追求するものだ」
 と思っている人もいるだろう。
 追求するものが、美でありさえすれば、そこに、快楽が備わっていても、何ら問題はないということであろう。
 モラル、道徳という観点からいえば。
「快楽が、本当はそれに反するものだという定義があるのだろうか」
 人によっては、快楽を得られなければ、性行為はできないという人だっているだろう。もし、快楽のない性行為というものがあったとすれば、
「子孫繁栄」
 という義務感だけに駆られた拷問でしかないといえるだろう。
「人間は、快楽が得られるから、性行為をするものである」
 といえるだろう。
 だから。
「子孫繁栄のために、性行為をするのであれば、快楽という悦びは、決して悪いことではない」
 といえるだろう。
 ただでさえ、昔から、
「家」
 という考え方は、特に日本人には強く、
「子供ができないのであれば、離縁されても仕方がない」
 と言われていたものだ。
 だから、何も殿様に、側室がいっぱいいるというのは、何も、
「ハーレムを作る」
 ためでも何でもない。
 もし、正室に子供ができなかったら、側室にできた子供を跡取りにするためである。
 今でこそ、
「一夫多妻制」
 というのは日本にはないが、これらが求められていたのは、
「子供を産めるのは、生理学的に、女性でしかない」 
 ということであった。
 今でこそ、同性同士の結婚が問題になっているが、昔ではそんなことはありえない。
 ただ、昔から、
「男色」
「衆道」
 と呼ばれるものはあり、特に戦国時代の戦国武将などに多かったと言われているではないか。
 やはり戦に出ることが多かったりするのと、
「明日をも知れぬ命」
 ということで、目の前の肉体を求めるのであろうか?
 正直、その理由は分からないが、見方によっては、
「男性同士の性行為」
 でも、
「美の追求」
 という見方で見る人もいるかも知れない。
 それこそが、
「耽美主義」
 というものの走りだと思うのは、危険なことであろうか?
 小説のトリックの中で、耽美主義を思わせる話があった。
 普通であれば、犯人の心理からすれば、
「殺人を犯してしまったら、なるべく現場から遠ざかりたい」
 と考えるものではないだろうか?
 そして、現場には、証拠となるものは絶対に残してこない。もし、残すのだとすれば、それは、警察をミスリードするためのものであったり、
「誰かが犯人だ」
 ということを思い知らせるために、必ず、その人を犯人にするという目的において、いわゆる、
「偽装工作」
 ということをするというものだろう。
 もっといえば、以前読んだ本の中で、これが、
「密室殺人」
 というものを微妙に絡んでいるのを見たことがあった。
 というのも、本当は犯人とすれば、被害者が殺された時、そのまわりに、いっぱいの、警察をミスリードするような証拠をばらまいておいたという犯罪であった。
 その犯罪は、ある旧家のような日本家屋で起こったのだが、その場所が田舎で、いわゆる、
「離れ」
 のようなところだったので、おりしも、前日の夜から降り出した雪のために、本当は、犯人が逃げたとされ場所も、足跡をつけておいたのに、せっかくの工作が無駄になってしまったということであった。
 しかし、これがその状況をまったく違ったものに変えてしまった。
 それが、
「密室殺人」
 という様相だったのだ。
 足跡が消えたおかげで、
「犯人が、どこから入って。どこに逃げたのか分からない」
 ということで、本当は、犯人がすぐに捕まるという単純な事件だったものが、
「完全犯罪」
 というような形になってきたのだった。
 しかし、これは、しょせん、偶然できたものである。そのことに気付くと、実は、
「密室の謎」
 というのも、簡単に解けるというものであった。
 というのが、
「ある程度の事件というのは、ほとんどは、その犯行の目的や主旨を考えれば、犯人は分かるというものである」
 つまりは、
「顔のない死体のトリック」
 ということが分かれば、
「被害者と犯人が入れ代わっている」
 ということが分かるというもの(それを逆手にとった話もいくつかあるが)
 さらには、
「一人二役」
 などというものも、分かった瞬間に、すべてが明るみになるというもの。
作品名:影のある犯罪計画 作家名:森本晃次