影のある犯罪計画
そもそも、明治維新の事業として、
「徳川時代の封建制度というものを、崩壊させる」
ということが大きな目標だった。
そのために行うこととして、まずは、
「身分制度の撤廃」
だったのだ。
いきなりは難しいので、
「四民平等とは言いながら、武士は士族、さらには、貴族を華族などといい、区別をしなければいけなかった」
のだった。
しかし、言葉だけで区別しても、封建制度のような特権は、もう武士にはない。
そうなると、それまでの武士と違うのだから、当然、不満が起こってくるのは当たり前というものだ。
そんな武士たちの不満を逸らすということでの、
「征韓論」
だったのだ。
だから、それからあと、
「佐賀の乱」
「萩の乱」
「秋月の乱」
などという不平武士の反乱が、いろいろなところで生まれてきたというのも、仕方のないということだったのだろうか。
そんな立憲君主の国なので、まず言えるのは、
「君主は天皇であり、大日本帝国というのは、天皇中心の国家であるということなのであった」
そんなことは、理屈では分かっても、実際にどういうものなのかということは、諸外国では、想像することもできなかったであろう。
それが、大日本帝国憲法の、天皇の欄にある、
「統帥権」
という問題だった。
この統帥権というのは、その後、大日本帝国が崩壊するまで、
「軍が暴走したことで、戦争が勃発し、敗戦することになった」
という、思い切りはしょった内容になるのも致し方ないことであったのだ。
明と暗、パート2
さて、この、
「統帥権」
というものだが、まずは、そもそも、大日本帝国というものが、まずは、前述のような、
「立憲君主」
であることであった。
立憲ということで、日本がなぜ、
「憲法を制定したか?」
あるいは。
「議会政治を行うようになったのか?」
ということが分かったであろう。
だが、日本という国は、これまでの歴史から考え、目指したものというのは、古代からお歴史を見ても、
「天皇中心の中央集権国家」
というものであった。
途中、中世においては、武士というものが台頭し、武士が力を持つことで、政治の中心は、
「幕府」
というものに移行した時代があった。
しかし、それはあくまでも、それまでの平安時代までというのが、
「貴族中心」
の世界だったということ、そして、さらに問題は、日本が農耕民族であり、
「土地から上がる米というものが、大きな影響を持ってくる」
ということであった。
たとえば、日本国の古代からということを考えても、土地の法律にも、いろいろとあり、
それを管理するやり方も、いろいろあった。
特に、
「荘園制度というものができてきてから、ややこしくなった」
というものだ。
基本的には、領主に納めていたものを、途中で、神社やお寺などが介入してきたりして、彼らが、自衛のために発展してきたのが、武士であったり、僧兵だったりした。
僧兵や、地方武士が反乱を起こしたりして、それを朝廷が平定するようになると、その朝廷が派遣するのも、また武士であった。
そんな中において、武士が次第に力をつけてくるが、身分的には、圧倒的に強いのが、貴族たちであった。
だから、平安時代の武士というのは、貴族などを守るためであったりするので、
「貴族のために働くのが、武士だ」
ということで、まるで、武士は。
「貴族の奴隷」
というくらいにまで、貴族側は思っていたかも知れない。
皇族や。貴族の、
「権力争い」
あるいは、
「天皇家における、後継者争い」
などというものが、内乱となってくると、そこに有力武士がついてくることになり、そこで力をつけてきたのが、
「源氏」
であったり、
「平家」
だったりする武士が、貴族の権力争いに巻き込まれ、勝った方の武士が力を持つようになり、最後には、平清盛が台頭することで、平家の天下がやってくることになったのだ。
そこから起こってきたのが、源平合戦。完全に武士同士の覇権争いだった。
こうなると、もう貴族や天皇には、力はない。勝ち残った源氏が力を持って、鎌倉に幕府を開き、
「そこから、600年という長きに渡る、武家政治が始まった」
ということである。
この時代に、数度、
「天皇中心の世の中に戻そう」
という乱がおこったが、失敗に終わった。
「後醍醐天皇が起こした建武の新政」
というものは、幕府の弱体化と、武士の不満が重なって、倒幕に成功し、
「建武の新政」
というものが始まったが、結局、命を懸けて戦った武士ではなく、褒美となるはずの土地を貴族に分け与えるという、まるで、
「平安時代までの律令制」
に戻そうということだったので、時代を逆行することになり、武力のある武士を敵に回したことで、結果、
「武士の世に戻そう」
という力には逆らえず、また別の幕府と作るということにしかならなかったのだ。
だからこそ、武家政治は長く続いた。
しかし、今度は外国が介入してくることで、時代が大きく動き、最初は、
「天皇を仰いで、外人を打ち払う」
ということであったが、外国の力が思ったよりも強いということで、それまでの、
「尊王攘夷」
というものから、
「尊王倒幕」
という形になったのだ。
やはり、日本という国は、
「中央集権国家」
として一つになるには、
「天皇を中心とした社会でなければならない」
という、
「尊王」
という考えは、外せないという独特な政治体制であるということであろう。
という時代となり、
「徳川幕府を倒し、天皇中心の中央集権国家の建設」
ということを、薩摩、長州が中心となって行うだった。
それが、大日本帝国が生まれるまでの、
「日本の歴史」
というものであった。
しかも、江戸幕府というのは、約200年に渡り、
「鎖国政策」
というものを取っていた。
その最大の理由は、
「キリスト教排除」
というものであった。
「キリスト教は国を亡ぼす」
と言われていたが、それは、実は間違いではなかった。
前述のように、諸外国における、
「植民地化」
というものが、
「キリスト教の宣教師を送り込むことから始まる」
と言われていた。
つまり、宣教師を受け容れることで、国内が乱れ、内乱を起こさせるということが最大のミソなので、最初の宣教師受け入れさえなければ、いいのだ。
特に、幕府は、最初からそれがわかっていたのかどうかは、正直不透明だが、
「キリスト教が、徳川幕府のやり方と違っているのは、明白だった」
といえるだろう。
それを思えば、幕府の。
「キリスト教禁止令」
というのは、政策的には間違っていなかったのだ。
すでに、キリシタンとなっている人たちを迫害したりしいたことは、人道的にどうかとは思えるが、実際に、一揆が起こる原因として、戦国時代などでは、寺社の力が強かったりして、特に、信長を苦しめた、一向宗などによる勢力を考えると、
「宗教は怖いものだ」
といえるだろう。
特に徳川初代将軍である家康を苦しめたのも、一向宗の一揆であった。
「三河一向一揆」
「長嶋一向一揆」