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影のある犯罪計画

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「戦う前から、勝敗は決していた」
 といってもいいだろう。
 最後には、
「裸城同然」
 ということになり、最後には、
「天守が燃え落ちる」
 ということになり、淀君と、秀頼は、
「切腹して果てる」
 ということになったのだ。
 それが、最後の戦ということで、
「やっと、戦国の世が終わった」
 ということになったのだ。
 だから、この時の年号を取って、家康は、
「元和堰武」
 という言葉を宣言した。
 つまりは、
「元和という時代に入り、武器をすべて蔵に納め、戦のない時代の訪れを宣言する」
 ということであった。
 そもそも、この
「元和」
 という元号も、
「平和の元になった年」
 という意味が含まれているのだった。
 それから少しして、家康は死ぬのだが、
「2代将軍秀忠」
「3代将軍家光」
 という時代には。力のある大名。特に外様大名には、結構な因縁を吹っ掛けたりした。
 そもそも、
「元和堰武」
 によって、発せられたこととして、
「一国一城令」
 というものがあった。
 っ大名が政務を見るのに、一つ領内に城があればいい」
 ということでそれ以外の城は、
「廃城」
 ということにいなければいけなかった。
 しかも、城の修理等も、いちいち幕府の許しを得ないといけない。
 だから、改易の理由として、
「勝手に城の修理を行った」
 ということであったり、
「浪人を必要以上に召し抱えたりすると、幕府に対して、謀反の心があると見られて、改易の理由にされてしまう」
 ということになるのだ。
 それを考えると、
 徳川幕府はまだまだ安泰ではない。
 改易の本気度は、
「外様大名だけにこだわらない」
 ということだった。
 三河以来の、徳川への重鎮であり、絶えず、親子二代で徳川家に仕えてきた、
「本多正純」
 までもが、改易ということになったりした。
 さらに、家光の時代になると、
「弟の忠長までもが、改易させられ、切腹の憂き目に遭っている」
 ただ、これはウワサとして、
「忠長の素行が手の付けられないほどであった」
 ということが原因だったともいわれているが、真意のほどは、どこまでだったのかというのは、分からないところであった。
 徳川幕府というのも。安定するまでには、これだけの犠牲を払ったということになるのである。
 そんな江戸であったが、確かに
「財政逼迫」
 であったりなどといういろいろな問題を抱えていたが。それでも、大きな戦が起こらなかった、250年以上というのは、世界的にも珍しいと言われるほどの、まさに、
「天下泰平」
 といっても過言ではない時代を築いたというのは、すごいことであっただろう。
 それも、
「鎖国制度」
 であったり、
「参勤交代」
 であったり、
「天下普請」
 と言われるような事業を大名に課すことで、大名の力を削ぎ、謀反を起こさせないようにしたという意味では、成功したといってもいいだろう。
 そんな時代において、
「徳川幕府は、黒船来航までは、見事に鎖国政策を行っていた」
 のだった。
 そういう意味で、何とか、植民地にならずに済んだともいえるだろうが、
「日本の立地的な存在」
 ということと、当時の外国からすれば、植民地時代というのは、
「日本は戦国時代であり、勇猛果敢な群雄割拠の時代に、他の国を植民地にしたような方法では、とても、日本に侵攻することはできない」
 というほど、戦という意味では、日本にたいして、
「勝ち目はない」
 と考えたのか、
「勝つことはできるだろうが、そのための損害は、相当なものだ」
 と考えたとしても、それは無理もないことだったに違いない。
 それを考えると、
「日本が植民地にならなかったのは、運がよかったということもあるが、ある意味、必然的だと思えるほど、武士というのは、強かった」
 ということであろう。
 何しろ、戦国時代のような、
「群雄割拠」
 と呼ばれ、さらには、内部からも、虎視眈々と、領主に取って代わろうという、
「下克上」
 と呼ばれるものが渦巻いているだけに、領主も必死である。
 それだけに、
「戦争のやり方」
 などというのは、武士たちのすごさが分かるという時代だった。
 そんなところへ、占領軍を送り込んでも、
「そもそも、日本という国が、分裂しているのだから、最初から統治など不可能だ」
 といえるだろう。
 そうなると、幕末のように、
「どこかの藩であったり、幕府と直接結びついて、貿易を行う」
 ということが精いっぱいということになるに違いない。
 そんな時代を経て、黒船の威力、つまりは、
「砲艦外交」
 と呼ばれる、一種の、
「脅し」
 というもので、
「開国させられた」
 といってもいいだろう。
 ただ日本も数十年後、同じような、
「砲艦外交」
 により、
「江華島事件」
 を引き起こし、韓国を強引に開国させたということがあった。
 それにより、その当時、韓国を属国とみなしていた、
「清国」
 を、刺激したのは、無理もないことであった。
 日本は、韓国を、
「独立国」
 と見なし、清国側は、
「宗主国」
 という立場で、韓国に介入してくるのだから、当然日清間の緊張は、すごいものだったのだ。
 結局、
「朝鮮を巡る攻防」
 から、日清戦争に発展した。
 そもそも、韓国自体の中に。
「攘夷派」
 と
「独立派」
 とが対立し、日本、清国を巻き込むことで、事態が収拾つかなくなっていたといってもいいだろう。
 これは、日本における、
「幕末の動乱」
 と同じで、
「幕府にはフランス。薩長軍には、イギリス」
 ということで、こちらも、一種の
「代理戦争」
 という様相を呈していたのが、
「戊辰戦争だった」
 といってもいいだろう。
 そういう意味で、日本における日清戦争から後は、軍部が力を持ったことによって。そこから起こる戦争は、最初から避けることができなかったという意味で、その理由は、ある程度。
「一貫していた」
 といってもいいかも知れない。
 何しろ、大日本帝国というのは、一種異様で、他の国にはない軍の体制だったからである。
 その一番の理由が、
「天皇制」
 にあったといえるだろう。
 というのは、大日本帝国というのは、
「立憲君主国」
 というもので、
 明治維新からの目標としては、
「開国した時に結んだ諸外国との不平等条約撤廃を目的とするために、諸外国に、追いつけ追い越せ」
 ということで、国家のスローガンを、
「富国強兵」
「殖産興業」
 というものに定めたのだった。
 というのは、
「国を富ませて、国防に力を入れる。そのために、産業を興す」
 ということだったのだ。
 だから、
「諸外国に肩を並べるということで、外国のマネをしたり、議会政治や憲法の制定によって、近代国家になったことを示そう」
 というものだった。
 さらに、日本という国が、力を持つために、
「軍の強化」
 もあったのだ。
 西郷隆盛などが提唱した
「征韓論」
 に反対しても、まずは、国の力を強めるということを優先しなければならなかったという理由もあったのだ。
 ただ。この
「征韓論」
 というのも、ある意味切羽詰まったものでもあった。
作品名:影のある犯罪計画 作家名:森本晃次