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影のある犯罪計画

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 というくらいに、捕虜に対しての処置が素晴らしかった。
 しかし、他の国がどうなのかということは分からない。正直、
「諸国に攻め入って、占領し、植民地をどんどん作っている」
 という国々なので、捕虜への配慮など考えられないと思っていたとしても、それは、決して間違った考えではなかったことであろう。
 そもそも、この世において、争いや戦争などが、起きるというのが、どういうことなのか、正直、ハッキリと定義できる人などいるのだろうか?
 戦争というもの、どんなものが多いのか?
 いろいろ考えてみたが、どうしても、考えられるのは、宗教がらみというのが多いような気がする。
 戦争というか、侵略というところで、宣教師というのが、そのカギを握っている時代があったではないか。
 例えば、16世紀くらいから続く、いわゆる、
「大航海時代:」
 に端を発して、
「植民地獲得競争」
 なるものである。
 特に、そのやり方というのが、宣教師が絡んでいると言われている。
 まず、先遣隊として、宣教師を送り込み、そこで、布教を始める。そして、同時期くらいに商人もやってきえ、貿易も始まったりする。すると、元々あったその国の宗教と衝突などが起こり、国内が混乱すると、居留民保護であったり、商人の保護という名目で、軍隊を送り込み、その国の内乱を収めることで、統治を行うようになる。それが、植民地の始まりということになるのだった。
 そんな植民地は、完全に属国となり、不平等条約はもちろん、宗主国には、逆らえないということになるのだ。
 そうなると、例えば、世界大戦などが発生し、ヨーロッパが戦場になると、植民地からも兵として召集されるということになる。
 この時の世界大戦は、
「民族問題」
 が主であったが、結局は、
「民族も違えば、宗教も違ったりする」
 ということで、
「間接的に、宗教が関わっている」
 といえるのではないだろうか。
 また、日本においての、戦であったり。一揆、あるいは、内乱というものも、宗教がらみがかなりあった。
 キリスト教が前面に出たものとしては、
「島原の乱」
 などというものがあった。
 天草四郎時貞を、
「ゼウスの生まれ変わり」
 などと称しての反乱であった。
 当時の島原藩の領主が、その時代によく行われていた。
「大名の改易」
 という状況。
 つまりは、大した理由もなく、幕府から因縁を吹っ掛けられ、
「謀反の心あり」
 と思われて、
「領地没収:
 あるいは、
「お家断絶」
 などという状況のことである。
 成立してからまだ間がない
「徳川幕府」
 であったが、元々は、
「豊臣政権」
 というものから、独立する形で起こった徳川政権であった。
 当時は、石田三成と、武闘派と呼ばれる武将たちとの間で、いざこざがあったことから、それに乗じた、
「天下取り」
 だったのだ。
 三成と武闘派の争いは、かの、二度に渡る、
「朝鮮出兵」
 ということにおいての、論功行賞においての報告が、捻じ曲げられていたことへの不満が大きかったのだ。
「俺たちは、外国で命がけで戦ったのに」
 ということなのに、恩賞があまりにも少なすぎるということで、その問題にかかわっていたのが、
「石田三成」
 ということで、武闘派たちが、三成を恨むというのも分かるということだった。
 もっといえば、
「三成など、国内にいて、戦争をしていないではないか。そんな血も流していないやつに、勝手に恩賞を決められてたまるものか」
 ということでもあった。
 かつては、
「皆、秀吉、いや、その性質である、おねに兄弟のように育てられた仲間だったのに、大人になって立場が変わってきたことで、このような憎悪の渦巻く関係になったというのは、悲しいことである」
 といえるだろう。
 しかし、それだけ、政治を行い、全国統一ということになると、難しいことなのであろう。
 それを思うと、徳川幕府が成立した時、
「関ヶ原では、何とか武闘派連中を取り込むことで、勝つことができたが、それも、すべては、徳川が、豊臣政権を守り、秀頼を立てるということが条件としてあったからのことではないか」
 ということであった。
 さらに、そこに、
「三成憎し」
 という感情があったのだから、ほとんどの武将が、家康についたのも分かるということであろう。
 それでも、兵としては、互角だったのだから、三成もすごいといえるだろうが、それは、あくまでも、
「秀忠軍が、真田に、足止めを食ったことで、徳川本隊が、合戦に参加できなかった」
 という状態でのことである。
 そういう意味では、最初から秀忠軍が加わっていれば、倍近くの軍勢なので、正直、
「徳川の圧倒的な勝利」
 だったともいえるだろう。
 そうなると、
「小早川の裏切り」
 などということもなく、戦は決していたに違いない。
 戦で勝利したことで、家康は、
「江戸に幕府を開き、徳川時代の幕開け」
 となったのだ。
 しかし、だからといって、すべてが、徳川の思い通りになるというわけではなかった。
「まだ大坂には、豊臣政権があり、秀頼がいるのだ」
 ということである。
 位としても、家康よりも、秀頼の方が上であったり、元々、関ヶ原に置いても、
「家康が、秀頼を立ててくれるのであれば」
 という条件で、家康方についただけである。
 ということは、
「いくら幕府だといっても、豊臣政権をないがしろにするようなことがあれば、いつ、徳川に牙をむくか分からない」
 ということで、関ヶ原の後、論功行賞の中で、豊臣ゆかりの武将の領地は増やしてはいるが、江戸から遠いところに、国替えになっているというのが、実情だった。
 これも、豊臣政権においての、
「全国統一の最後」
 となった、
「小田原征伐」
 において、家康の領地。
「三河、駿河、遠江と呼ばれるところを没収し、大坂から遠い、関八州を与えた」
 という秀吉のやり方のようなものであった。
 しかも、この時の家康の江戸転封には、もう一つの意味があり、
「東北への睨み」
 という、
「抑え」
 の意味もあったのだろう。
 それを考えると、
「徳川は、まだまだ、当時の豊臣世間を脅威に感じていたはずあ」
 といえる。
 下手をすれば、
「西国にいる豊臣ゆかりの武将たちが手を結んで襲い掛かってくる」
 ということになりかねないからだ。
 そんな、
「外様大名」
 への抑えということで、徳川主要の、
「譜代大名」
 たちに、城を作らせ、あくまでも、徳川を脅かさないようにと考えていたのだ。
 結局、家康は、
「豊臣家が存在している限り、徳川の時代ではない」
 と判断し、豊臣をけん制することで、大坂城が、
「浪人を集めている」
 ということを理由に、
「大阪を攻める」
 ということで、
「大坂の陣」
 というのが始まったのだ。
 豊臣方の、いわゆる、
「上層部」
 というのは、淀君が仕切っているようなもので、しかも、その取り巻きに、ほとんど戦経験のない者ばかりだったので、
「真田信繁」
 や、
「毛利勝永」
 と言った有力浪人が立てた作戦を、ことごとく却下し。
「大坂城は難攻不落」
 ということで、籠城戦となったが命取り、
作品名:影のある犯罪計画 作家名:森本晃次