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影のある犯罪計画

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 ということで、精神疾患だと決めつけているのではないだろうか?
 話を理詰めで聴けば、分かるというものなのかも知れないが、悲しいかな、
「彼が言っていることを、理解できる人間が、この世界にいない」
 ということで、問題となるのだった。
 それを考えると、前述の、
「それでも地球は回っている」
 という、ガリレオのことを思い出すのだ。
 特に中世などという時代は、宗教がらみということもあり、
「世間を騒がせる」
 ということをいう人間は、極刑にさせられた。
 または、まったく罪もないのに、ただ、不思議な力を持っているというだけで、処刑された、
「魔女狩り」
 と言われるような儀式であったり、
「自分の信じていることを、四行詩にて、分かる人には分かる」
 というようなものを残した、
「ノストラダムス」
 という人だっていたのだ。
 確かに、
「世間を騒がせる」
 という意味では、仕方のないことなのかも知れないが、すべてにおいて、批判的になるということは、許されることなのだろうか?
 それを考えると、当時の中世と呼ばれる時代は、実に危険な時代だったと、今の民主主義の世界から見れば、そう思えるのだった。
 ただ、民主主義においても、例えば民放などで、
「公共の福祉、善良な風俗に反するものは、向こうだ」
 というような、
「公序良俗」
 という、一種の、
「モラル」
 のようなものがあるのであり、しかも、最終決定ということに、
「多数決」
 というものが採用されているということは、見逃せない事実であった。
 それを考えると、
「世間を騒がせる」
 という理由で殺してしまうというのが、
「まずい」
 といって。一刀両断で、その意見を切り捨てるというのは、それこそ、民主主義の基本を脅かしているようなものである。
 民主警察も存在すれば、裁判制度もある。
 もっとも、中世にも裁判も警察もあったのだろうが、
「政治思想が違う」
 ということで、それぞれの発想の違いからか、決まってくる判決は、どちらにしても、
「許容できる範囲だ」
 というわけではないのも事実であった。
 元素や分子の世界で、
「三すくみ」
 と、
「三つ巴」
 という世界を考えてみると、その世界において、前述のような、顕微鏡で見えるような世界を人間は創造し、下等動物は、自分たちの世界ということもあり、立体感がある世界を想像しているようだった。
 ここでいう、
「創造」
 と
「想像」
 というものは、似たような意味ではあるが、まったく違っているのである。
 最初の、創造というのは、
「まったく何もないところから生まれる」
 という、創生であり、後者の、
「想像」
 というのは、自分がおぼろげに感じているものを、形にするというもので、この場合のおぼろげに感じているものというのは、その定義までは分かっているといってもいいのかも知れない。
 ということになると、ウイルスなどの下等動物は、人間のような、
「想像力がある」
 ということになるのだろうか?
 要するに、
「何もないところからの加算法が、
「創造」
 であり、
「実際にあるものを、形にして、映し出す」
 ということで、厳密には違うものなのかも知れないが、
「加算法」
 というものに対して、相対的に考えた時、
「それは、減算法ではないか?」
 と考えてしまうのだった。
 ただ、実際には、そのふたつの、
「創造」
 と
「想像」
 というものを自分の中で考えているのが、人間だということで、やはり、人間だけにしか理解できないものもあれば、理解しようとしても、そこから先はできないという、結界のようなものがあり、それを人間は分かっているのではないか?
 と考えるのであった。
 そんな想像力を、もし、下等動物にいたるまで、本当に持っていたとするならば、
「下等動物に見えるものは、人間にも見えるのかも知れない」
 と考えるのは、
「人間至上主義」
 という考えから来ているのではないだろうか?
 しかし、これを、
「完全否定」
 という形にしてしまうと、今度は違う意味での、
「人間至上主義」
 ということになり、普通の人は、後者を考えるのだろう。
 しかし、前者を考える人も若干名いて、それらの人にしか見えないものが見えた時、時代や社会背景の違いによって、
「恐ろしい存在」
 と感じるか、
「天才肌だ」
 と感じるかということの違いなのだろう。
 それこそ、
「長所と短所は紙一重」
 と言われるのと、同じ発想ではないだろうか?
 そんな広がりの中にある、
「三すくみ」
 であったり、
「三つ巴」
 をそれぞれどのように考えるのか?
「三すくみ」
 というと、身動きが取れないことで、
「静」
 と考え、そして、その逆で、
「三つ巴」
 というと、
「動」
 と見ることができる。
 つまり、三すくみの中には、前述のような抑止力が働いているわけで、別に、
「同じ力」
 というわけではない。
 同じ力ではなく、同じ力に値する均衡であることと、
「力がそれぞれの距離感を保たせるように働いている」
 ということから、
「静」
 ではあるが、その力は、外にも向けられているのではないか?
 と感じるのだ。
 それが、いわゆる。
「核の抑止力」
 であり、
「戦争をしてはいけない」
 という戒めに繋がったといえるのではないだろうか?
 逆に、三つ巴の場合は、力は完全に均衡している。これを、
「戦国時代の群雄割拠」
 と考えれば、理屈に合うということも考えられるだろう。
 三つ巴の関係というと、そろぞれの力が隣との関係ではなく、内に向いているのだ。
 そこでできた三角形の中で力を溜めることになる。
 だから、三すくみとは違い、この3つが、手を結ぶということも考えられる。三すくみでは考えられないことだ。
 ただ、お互いをけん制はしているが、もし、隣国と戦った場合、お互いに共倒れをする可能性がある。
 ということで、お互いに侵略をするということには、基本的に躊躇するだろう。
 そうなると、隣国と手を結び、もう一つの国に攻めこむということもありえるだろう。
 力が均衡しているのだから、完全に、
「2:1」
 ということになり、戦をすれば、連合軍に適うわけはない。そこで、他の国と同盟をしていればいいのだが、していなければ、簡単に滅ぼされることだろう。
 そして、滅ぼした後は、どうなるか?
 それまでは、仲良くその領土を分けるということになったとしても、それまでの均衡が破れることになるだろうか?
 三すくみの場合は、
「どれか一つがなくなれば、その瞬間に力の均衡はなくなってしまうのだから、結果は見えている」
 というものだ。
 しかし、三つ巴で、一つが潰れても、そこに残るのは、
「力の均衡の、3つが、2つになっただけだ」
 ということで、このまままた小康状態に陥るのかも知れない。
 といえるのではないだろうか?
 だが、完全に、
「力の均衡が保たれることで、動きが取れない」
 ということではないだろう。
 今までは、ずっと内部では動いてはいたが、それを隣国に及ぼすことはなかった。しかし、ここで一つが動いてしまうと、
「静」
作品名:影のある犯罪計画 作家名:森本晃次