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影のある犯罪計画

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 ということなのであろうが、身体だって同じことではないだろうか。
 つまり、
「身体の中で、菌やウイルスに対しての抵抗があるから、身体が熱くなる」
 ということである。
 ということになると、せっかく、
「身体が菌やウイルスと戦ってくれているのに、身体を冷やせば、自分で自分を苦しめることになるではないか」
 だから、本当は、
「熱が出てきた時というのは、まずは、熱が上がり切るまで、身体を冷やさない。逆に、身体を温めるように、布団の中に潜りこみ、安静にしている」
 というのが正解ではないだろうか?
「では、いつ体温が上がり切ったのか? ということが分かるというのか?」
 ということであるが、それが分かるのは、
「発汗作用」
 のあるなしが問題である。
 つまり、
「体温が上がり切ってしまうと、その時に、菌やウイルスを退治したのだから、その毒素のようなものを、汗として身体の外に出そうとする本能が、人間にはあるのだ」
 だから、
「汗を掻く」
 ということなのだ。
 その時には、何度も衣類を着替えて、その時に身体を拭く。
 そして同時に、この時に身体を冷やすということをするのである。
 そういえば、
「確かに、悦が上がっている時、熱があるにも関わらず、身体がふるえていたではないか。それは、ある意味、武者震いというのか、身体の抗体が、菌やウイルスと戦っている証拠で、熱を持とうとしているが、身体は寒いという証拠ではないだろうか。
 要するに、熱が上がり切って、汗を掻き始めれば、そこで、
「ピークは越えた」
 ということであろう。
 発熱もどんどん下がり始めて、身体の節々が痛かったのも、収まってくるというものである。
 身体の中の、そんな、
「治癒能力」
 というものは、誰にでも備わっているものだ。
 これは、人間だけでなく、いや、他の動物の方が、発達しているのかも知れない。
 たとえば、爬虫類のトカゲなどの種類は、
「尻尾を切られても、また生えてくるではないか」
 ということである。
 よく言われることとして、
「トカゲの尻尾切」
 という言葉があるが、まさにその通りだ。
「尻尾を切ることで、外敵から逃れる」
 という一種の本能で、自分を守る。
 それは、
「社会における。悪徳なことをしている連中が、起業を守るために、下っ端の人間を切り捨てる」
 という痛烈な皮肉などに使われることだ。
 しかし、これは、本能ではなく、意識してやっていることであり、許されることではあない。
 ただ、
「いい悪い」
 という考えをお返しすれば、これも一種の本能おようなものだともいえるかも知れない。しかし、こんな言葉カリして生き残ろうとしても、結局、どんどん人が減っていき、結局、まわりは、守備力がゼロになってしまい、一気に敵から攻められると、どうしようもなくなるだろう。
 得てして、そんな敵に中に、
「トカゲのしっぽとして切り捨てられた人もいたりするわけで、外敵によっては、切り捨てられた尻尾が出るのを待っていて、それを取り込むことで、攻撃目標を聞き出せるということになる」
 ということで、
「トカゲというのは、自業自得」
 ということであり、
「因果応報だ」
 といえるのではないだろうか。
 それを考えると、
「人間というのも、間違いなく動物の一種で、何も特別なものでも何でもないんだ」
 ということを思い知らされるということになるのだろう。
 それが、
「三すくみ」
 というもので、
「動くと負けだ」
 ということになる。
 それぞれ、
「力の均衡」
 が作用しているというわけで、
「三つ巴」
 のように、
「力が拮抗している」
 というわけではないのだ。
「三すくみ」
 というのは、作用であり、
「三つ巴」
 というのは、
「それぞれが、主役で、何とかして、その巴を抜け出そうとして策を弄することができるというものだ」
 その策というのが、
「時間に作用するものなのか?」
 それとも、
「別の力を借りることで均衡を破ることになるのか、何といっても、自分だけが、一つ抜け出せばいいわけで、自分が力をつけてもかまわないし、相手の力を削いでもいいわけである:
 といえるので、三すくみに比べれば、それだけ、
「自由だ」
 といってもいいだろう。
「三すくみ」
 というものはそうはいかない。
 ちょっとでもその力の均衡を破ってしまえば、ダメなわけで、それこそ、
「それぞれに、抑止が掛かっている」
 といってもいいだろう。
「抑止」
 という言葉を聞いて、ピンとくることがないだろうか?
 そう、
「核の抑止力」
 と言われていた時代があったではないか。
 今もなくなったわけではなく、
「核の抑止力」
 という言葉の同意語として使ってもいいであろう、
「今ではなくなった言葉」
 ということで、
「東西冷戦」
 というものがあったではないか。
 これは、元々が、
「大東亜戦争」 
 の時に、アメリカが、元々は、
「ナチスが原爆開発を進めている」
 ということから、
「アメリカも原爆開発をしないといけない」
 という、アインシュタインらからの手紙にて、
「マンハッタン計画」
 というものが立ち上がり、原爆開発を行ったのだ。
 原爆は完成したが。肝心のナチスは、崩壊してしまった。
 そこで、白羽の矢が、日本に立ったのだ。
 本来なら、日本に落とす必要はなかったのだろうが、それぞれの思惑が重なったことで、結果として、
「ヒロシマ」
「ナガサキ」
 という悲劇が起こったのだ。
 だが、そもそも、戦後の世界が、
「資本主義陣営」
 と、
「共産主義陣営」
 とに分かれて、睨みあうという構図は出来上がっていたのだ。
 だから、
「アメリカとしては、実験ではなく、実践でどこかの都市で使う必要があった」
 ということも、事実だったのだろう。
 確かに、
「共産主義陣営」
 では脅威であったことだろう。
 しかし、彼らも、その開発に成功した。
 というのも、
「ベルリンを占領したソ連は、ナチスの科学者を大勢、モスクワに連れていっているであろう」
 ということだからである。
 モスクワに入った科学者たちは、助命を条件に、原爆開発に従事させられたことであろう。
 だから、それから数年で開発に成功し、実験まで成功させ、
「アメリカに追いついた」
 というわけだ。
 そこで、初めて。
「核の抑止力」
 というものがいわれ始めたのだ。
 つまりは、
「使用してはいけない兵器」
 ということであり、その理由が、
「使用すれば、世界は終わりを迎える」
 ということになるのだ。
 ということは、核兵器というものが生まれた時、誰かがいったと言われているが、
「これで世界から、戦争はなくなった」
 ということであった。
「つまりは、結果、遣えば終わりというところに話が戻ってくる。これも一種の、三すくみであり、三つ巴のようなものなのかも知れない」
 といえるだろう。
 それが、
「抑止力」
 というもので、それが最大限に生かされるのが、
「三すくみの関係」
 ということだ。
 ただ、
「東西冷戦」
 というのは、三すくみではない。
 だからこそ、
作品名:影のある犯罪計画 作家名:森本晃次