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表裏と三すくみ

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 というものがあり、その摂理は、その生理的な関係にも似ているのではないだろうか?
 なぜなら、
「弱肉強食」
 というのは、最初から決まったもので、
「食用になる」
 あるいは、
「自分が食べる」
 というのは、その優劣性にあるのであり、それでも、
「食われたくない」
 と思う動物には、生まれながらに、
「相手に襲われない」
 というような、本能というか、習性をもっているというものだ。
 たとえば、
「カメレオンなどの保護色を持ったもの」
 あるいは、
「ハリセンボンなどのように、危険を感じると、針を身体に作ろうとするもの」
 さらには、
「フグなどのように、身体に毒を持っているもの」
 と、それぞれ、外敵に対しての
「持って生まれた特性がある」
 ということだ。
 つまりは、
「本能というものは、生まれながらにあるというもので、裏を返せば、最初方立場の優劣は、天地がひっくり返ろうとも、変わりはない」
 ということになるのだろう。
 そんな状態において、
「子供と大人の関係性というものは、完全に優劣があるもので、苛めをする理由の一つに、家でのことが大きいと言われる」
 親が離婚したり、親が事業に失敗したりなどと、
「子供には関係のない」
 そんなことで、子供は嫌な思いをすることで、
「この苛立ちをどこに持って行けばいいのか?」
 ということなので、
「子供が生まれつき、苛めっ子になるというのは、ちょっと強引な発想ではないだろうか?」
 と考えるのだろうが、果たしてそうだろうか?
 人間には、
「遺伝子」
 なるものがあって、
「子供を巻き込むようなことをする親から生まれた子供」
 ということで、遺伝子によって、その性格が形成されているとすれば、
「親も子供の頃は、苛めっ子だったのではないか?」
 ということになる。
「苛めっ子の家系は、ずっと苛めっ子であり、いじめられっ子の家系はずっといじめられっ子となる」」
 というのは、やはり、強引な考えであろうか?
 正孝は、
「俺って苛めっ子なのか、いじめられっ子なのか?」
 と思っていたが、小学生の頃から孤独だと、意外と苛められることもないようで、かといって、苛めもない。
 なぜなら、
「孤独な人間に、誰かとつるむということはないからだ」
 ということである。
 ただ、中学に入ると、徐々に見えてくるものがあった。
 それが、
「大きく分けて、3つに分類できる」
 ということであった。
 一つは、
「苛めっ子集団」
 やはり、苛めっ子というのは、集団でしか存在できないものだということである。
 もう一つは、
「いじめられっ子」
 苛めっ子がいるのだから、いじめられっ子がいないと、その存在意義はないだろう。
 だが、それを考えてみると、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
 という、禅問答を思い出す。
 ただ、こちらの場合は、
「いじめられっこが先だろう」
 と思う、苛めっ子というのは、群れをつくるからだ。
 そして、もう一つは、
「孤独な団体」
 ということになるのだが、
「じゃあ、つるんでいるけど、苛めっ子ではない連中などいないということなのか」
 と言われるようになるが、
「それはその通りだ」
 と自分に言い聞かせてみた。
 なぜなら、いじめられっ子がいて、苛めっ子連中が苛めているという、卑劣な行動に。、皆止めるでもなく、黙っているではないか。
「先生に言いつける」
 という人もいない。
 そんなことをすれば、
「苛めのターゲットは自分に向いてくるからだ」
 というわけである。
 苛めというのは、エスカレートしてくると、いじめられっ子は引きこもりになる。
 そうなると、ターゲットがいなくなるので、今度は別のターゲットを探すことになり、その時、何かで目だったりすると、その矛先が自分に向いてくるということを考えると、何もできなくなる。
 本当は、
「苛めっ子が一番悪い」
 ということは分かっているのだが、
「苛められる方にも、それなりに理由があるのではないか?」
 と考えてしまうので、
「母艦者ほど、自分に都合よく考える人間はいない」
 ということだ。
 その時、
「自分だけが悪い」
 とかんがえないように、自分以外の人とつるむことで、
「その責任を分配する」
 と考えるようになる。
 だから、
「傍観者ほど、孤独を怖がるものはいない」
 といえるのだろう。
 しかし、かといって、
「苛めっ子だってつるんでいるではないか?」
 と思われるが、母艦者と苛めっ子とでは、その意識が違っている。
 肩や、
「苛めっ子の立場が逆転するということを恐れている」
 というもの、肩や、
「一人でいると、苛められてしまうという考えではなく、傍観者の責任を人にも負わせる」
 ということでの、責任逃れであるが、この二つは、どっちが悪いというのだろうか?
 ということであった。
 苛めっ子であったり、いじめられっ子に、強引にそのどちらかに入れ込もうとすると、
「孤立していない人は皆、苛めっ子だ」
 といってもいいだろう。
 孤立している子は、中には、
「苛めっ子」
 という部類に入るといってもいいだろうが、それも一部で、基本的には、一人でいる場合というのは、
「そのどちらにも属さない」
 つまりは、
「苛めっ子」
「いじめられっ子」
 そして、
「孤立してる人」
 という3つに分類されるのだ。
 その中で、孤立している人は、
「何から孤立しているというのだろう?」
 と考えるが、そもそも、孤立している人は、
「自分が孤立している」
 ということを分かっていて、わざと孤立の道を選んでいるのだから、
「苛めの世界とは違う」
 といってもいいだろう。
 いじめられっ子が、孤立して、行き場がなくなると、
「引きこもりになってしまう」
 というのとの違いであろう。
 引きこもるということは、
「最初から、そして自分から引きこもりの道を選んだわけではなく、苛められたので、逃げ道を探していると、引きこもりしかない」
 と考えるからあろう。
 いじめられっ子は、
「生まれながらにしていじめられっ子だ」
 というゆえんがここにある。
 つまり、
「一度苛められてしまうと、その行き着く先というのは、ある程度決まってくる」
 ということだからだろう。
 そういう
「3つの分類」
 をわかっている人がどれだけいるだろう。
 きっと、孤立している人は分かるはずだ。
 孤立していない人から見れば、
「孤立しているんだから、まわりが見えるはずなどない」
 と思うことだろう。
 だが、それはあくまでも、相手の言い分でしかなく、
「孤立するには、それなりに、つるむということが分かっての上のことで、しかも、苛めというものに絡みたくない」
 という思いから起こってきた考えであった。
 それを思うと、
「孤立というもの、まんざら悪いことではない」
 と考えるようになったのだった。

                 肖像画

 絵が苦手だと思っていた正孝だが、中学に入ると、美術部に入部した。その理由は、実に不順で、
「好きなタイプの女性が先輩にいた」
 という理由だったのだ。
 その先輩は、名前を、
作品名:表裏と三すくみ 作家名:森本晃次