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表裏と三すくみ

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 と感じるのが、一番だと思うのだった。
 だから、図工の授業の時。先生から言われた皮肉を、実にまっすぐに受け取ってしまい、そのおかげか、図工や、音楽などの、
「芸術的な授業」
 というものが、
「俺にとっては必要ない科目なんだ」
 と、完全に思い込んでしまった時だっただろう。
 先生の言葉が大きな影響をその後も与えていくということで、学校に、行きたくなくなるという時が来るということを、その時はわかっていなかったのだ。
 正孝は、図工の彫刻を作った先生に、一時期憧れていた。
 その先生は、女性の先生だったのだが、まだ、
「異性を好きになる」
 ということのないはずの正孝だったので、
「好きだったのか?」
 と聞かれると、
「分からない」
 としか、答えられないだろう。
「先生のあの華奢な指先から、作品を作る時の、大胆な力強さは、どこから出てくるというのだろう?」
 というところから始まって、先生の身体を、舐めるように見ていたという感覚があった、
 その視線の強さは、
「大人になっても、これほど強い視線を浴びせることはないだろう」
 という根拠のない思いがあったのだ。
 だが、それは実際にそうだったようで、
「異性を意識するようになると、今度は、その視線の鋭さが、自分にとって、気持ち悪さに繋がるような気持ちがあったのだ」
 というものだ。
 その心としては、
「大人になると、自分がしている行動を、相手がどう感じるのか? ということが分かるようになってくる」
 というのが、その理由で、だからこそ、大人になるということがどういうことなのかということが分かってくるというものだった。
 だが、先生はちゃんと心得ているのか、相手は小学生。こちらがどんなに熱い視線を送ろうとも、軽くいなしているだけで、何とも思っていないのは分かるのだった。
 そんな先生へのあこがれは、
「先生が描く絵」
 に注がれるようになった。
 最初こそ、確かに、
「絵を描くというのは、絵の具で汚れるだけで、しかも、その匂いのひどさに、閉口していたというのが、本音ではなかったか」
 ということを思い出していたのだった。
 先生は油絵を描いているようだったが、さすがに小学生に油絵は敷居が高い。
「まずは、鉛筆デッサンからかな?」
 と思いながら、スケッチブックを買って、それなりに、近くの公園に行って、そこで、スケッチをしたりするのが、好きになっていた。
「公園というのはうるさいだけだ」
 と、思っていた。
 実際に、子供が奇声を挙げて、叫びながら遊んでいるのを見ると、ウンザリするのだった。
「何も、そんなに奇声を挙げなくてお」
 と思っていた。
 奇声だと思うから、苛立ちが募ってくる。
「静かに遊べないものか?」
 と思うのだ。
「自分だったら、あんなに奇声を挙げたりしない」
 と思うのは、最初に、
「なぜ、あんな奇声を挙げるのか分からない」
 と思ったからだ。
「自分の存在を示したい?」
 あるいは、
「一緒に遊んでいる仲間の中で、一番でありたい?」
 あるいは、
「他のグループに負けたくない?」
 などという、まわりの範囲にもよるのだが、結論としては、
「存在を示したい」
 ということなのか、それとも、
「自分が一番になりたい」
 ということなのか、どちらにしても、
「誰よりもうるさくしたい」
 という目立ちたがりな性格が、そうさせるのだろうと思うのだった。
 それが、一種の、
「わざとらしさ」
 であり、それが自分なりに分かっているから、余計に、そう感じるのではないだろうか?
 それを思うと、公園で奇声を挙げている連中を見て、
「俺は、あんなやつらとは仲間でも何でもない」
 と言いたい気持ちの表れが、鬱陶しさや、苛立ちになるのだろう。
 だから、公園というところは嫌いだったのだ。
 それ以上に、
「友達とつるむ」
 ということが、嫌だった。
 だから、いつも一人でいることが多かったのだが、それを先生や、親は、何やら心配しているようだった。
「子供が、孤立しているのではないか?」
 と思うと、大人は、必要以上に、何かを警戒するもののようで、
「何を警戒するのか?」
 というと、たぶん、
「孤立している子供が、苛めを受けるようになり、引きこもりになったり、最悪、自殺を試みようとするのではないか?」
 と思うのではないかと、正孝は大人に対して感じた。
 確かに、その可能性は高いといってもいいだろう。
 実際に、苛めというのが存在し、それが横行してくると、苛められている子がどういう運命になるのかということは、結果だけだが分かっている。
 原因が分からないから、どうすることもできないわけで、そもそも、原因が分かったとしても、それをマニュアルという形で残すことはできない。
 なぜなら、
「人それぞれで、パターンが違うからだ」
 といえるだろう。
「苛めの数だけ、そのパターンは違っている」
 と言われる。
 そもそも、苛めている側に、
「どうして苛めるのか」
 と聞いたとすると、その原因について、本人たちは、
「さあ?」
 と答えるかも知れない。
 それは、苛めを受けている方も同じで、いじめられっ子が、その理由を言わないのは、苛めっ子に、
「絶対に言うなよ」
 と言われているわけではなく、苛められる方にも心当たりがないのだろう。
 もっといえば、
「俺が苛めっ子なのか?」
 と、苛めっ子に、
「自分がいじめている」
 という意識がないのだろう。
 最初から意識があれば、本人も、
「苛めが悪いことだ」
 と分かっているだろうから、苛めなどしないのかも知れない。
 だが、実際に、苛めをしている子に、
「苛めの意識がない」
 というのは、本当に稀なことだろう。
 最初はおぼろげでも、
「これが苛めというものか」
 と感じるようになると、
「時すでに遅し」
 というべきなのか、苛めをやめられなくなっているのだ。
 というのも、苛めを行っている方は、もう辞めることができなくなってしまっているのではないか?
 なぜなら、sでに、仲間を形成しているからだ。
 その仲間というのは、
「苛めを本格的にするには、自分一人ではできない」
 という意識を持っているからではないだろうか。
 なるほど、確かに苛めっ子というのは、一人ではない。必ず複数いるではないか。
 それは、
「苛めというものが、一人では成り立たない」
 というよりも、
「下手をすれば、立場が逆転してしまうかも知れない」
 という思いからであろう。
 しかし、正孝が感じているのは、
「苛めっ子、いじめられっ子」
 という括りは、
「最初から決まっているというもので、それぞれに、苛めっ子をしている子が、苛められているその図を想像することは難しい」
 といえるだろう。
 つまり、生まれながらに、
「立場の優劣は、最初から決まっているのではないか?」
 ということである。
 それは、人間を一つの動物として考えた時、人間というものが自然の中で、
「どのランクにいるのか?」
 というのが分かっているのと同じ理屈である。
 つまりは、自然界というところは、
「自然の摂理」
作品名:表裏と三すくみ 作家名:森本晃次