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表裏と三すくみ

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 と聞いたが、少し気持ち悪いという気分になった。
 というのも、
「こいつは、部員でもないのに。うちの部員のことをチェックしているのか?」
 という、一種の、
「ストーカー気質」
 と、
「俺が、ゆいか先輩を気にしていていたということをどうして知っているのか」
 ということと、
「俺が自分でも意識していない、ゆりかのことを、こいつは、どうして意識しているのか?」
 ということであり、それは、
「俺とゆりかの仲を疑っている」
 ということであり、それは、正孝に対しての、
「執着ではないか?」
 と思うと、そちらの方が気持ち悪い気がするのだった。
 だが、その話を聞いていると、
「どこまで真面目に聞いていいものだろうか?」
 と感じられた。
 元々、真面目に人の話を聞くというよりも、どちらかというと、
「はぐらかす」
 という方が強い男だったので、それを思うと、
「よく皆から、怒られなかったよな」
 と思うほどだった。
「人の話を聞くときは、相手の目をしっかりと見て話をしなさい」
 というようなことを、親から言われていたりした。
 親が言っていることは、確かに間違いではないのだが、真面目に聞いていて、
「損をする」
 ということも、今までには、結構あった。
 というのも、
「小学生の頃は、他愛もない話に花を咲かせる」
 ということが多かったので、それが、友達としての、バロメーターのような感じなのだったのだ。
 小学生の頃に一人で、
「孤立していた」
 いや、言い方を変えれば、
「孤独を楽しんでいた時期」
 というのは、
「結構、SFのような、空想物語の本であったり、科学の話の本を読んだりしたものだ」
 もちろん、大人の本は難しいので、中学生くらいの人が見れるくらいの本を気にするようにいなっているのだった。
 そのおかげで、
「タイムマシン」
 の本などを見たりすることも多かった。
 一つ、その中で気になったのが、
「ドッペルゲンガー」
 と呼ばれるものであった。
 この言葉は、意外といろいろな人が知っていて、話をしてみると、案外皆それぞれで、微妙に考え方が違うというようだった。
「どこで知ったのか?」
 と聞くと、そのほとんどが、
「アニメだ」
 というではないか。
 確かにアニメなどでは結構あるかも知れない。
 マンガもアニメも見ない正孝には、それ以外から得た知識の人と話をしたかったのだが、それも致し方ないだろう。
 最近一緒にいる、長政も、
「アニメやマンガだ」
 という。
 実際にどういう話か聞こうと思ったが、
「話が長くなる」
 という。
 というのも、
「話の中の展開として、ドッペルゲンガーというものが出てくるので、話す方も、どこから話せばいいのかということで、戸惑ってしまうんだよな」
 という。
 中には、
「登場人物が、ドッペルゲンガーのような存在のキャラクターになっていて、それを説明するのが難しい」
 という。
 それはそうだろう。
「一人の人間のドッペルゲンガーの話をするには、その元になった人間の性格から話さなければいけない」
 ということだ。
 つまりは、
「本編の中で、徐々にその人の性格があらわになっていくような感じであれば、まわりの人のことも書かないといけない」
 ということになり、
「範囲をどこまで伸ばしていいのかが、分からない」
 ということになるのだ。
 それを考えると、
「最初と終わりをどこに持ってくればいいのかが、分からない」
 ということであり、結局、
「マンガを頭から読んでもらわないと、説明ができない」
 ということになるのだというのだった。
 それが、長政だったのだが、それ以外に、同じマンガで、
「ドッペルゲンガーというものを覚えた」
 と言っている人に聞いてみたが、その人は、結構うまく話をしてくれた。
 どこから刻めばいいのかということをしっかりとつかんでいるようで、話の道筋もよく説明を聞いて、分かったのだ。
「なるほど、説明上手な人に掛かれば、こういうことなんだ」
 と思えてきた。
 長政は、それほど説明が下手ではなかったのだが、
「きっと、最初から最後まで、完璧に説明しようと思うことで、自分の意識が空回りして、余計にどこで切っていいか分からない、金太郎飴のような感覚になるのではないだろうか?」
 と考えられるのだ。
 その感覚は、正孝にもわかっていた。
 正孝も、
「俺は、人に説明することが苦手だからな」
 と思っていたのだが、その理由として、
「俺には、簡単に分かることではないんだ」
 ということであった。
 いろいろな昔からある、
「おとぎ話」
 というのも、
「途中で終わっている」
 というのも少なくはない。
 中には。
「実際には、ハッピーエンドで終わるはずのものが、ハッピーエンドではなく、まるで、戒めのような終わり方をしている」
 というものがある。
 その最たる例として、
「浦島太郎」
 ではないだろうか?
 この浦島太郎という話は、これこそ、
「SF話の最たるもの」
 といってもいいかも知れない。
「カメの背中に乗って竜宮城に行く」
 というのは、
「まるで、空気のない宇宙空間のようではないか?」
 とも考えられる。
 もちろん、これは勝手な妄想であるが、浦島太郎が地上に戻ってきた時、
「竜宮城では、数日だったはずが、何と、数百年が経過していた」
 ということではなかったか。
 というのも、
「竜宮城ということろが、宇宙空間であり、宇宙まで、カメの背中という宇宙船に乗ってやってきた」
 と考えれば、アインシュタインの、
「相対性理論」
 ともいうべき、
「光速においては、時間が、ゆっくり進む」
 という理論を証明しているかのような話ではないか。
 編纂されたのは、室町時代で、約600年くらい前だというが、そもそも、編纂する前には、
「口伝」
 ということで、昔からその土地土地に残っている話が口伝えに言われてきたことであった。
 だからこそ、いろいろなところに、
「浦島伝説」
 と言われるようなものが残っているのだろう。
 となると、言われてきたのは、さらに昔からということになり、
「室町時代であっても、信じられないのに、さらに昔というと、それこそ、宇宙人説が、そのまま語られているようなものではないだろうか?」
 と考えられるのであった。
 浦島太郎の話は、本来であれば、もっと先まで話が続いているのだが、今日っか所編纂のための整備として、当時の文部省が、
「見るなのタブー」
 という話でまとめたというのだ。
 ただ、そんな理屈は分からない、小学生時代の正孝は、
「相対性理論」
 とは別の考えを持っていた。
 というのが、
「竜宮城というのが、光速だった」
 という考えではなく、実際には、数百年が経っていたという考えであった。
 それは、
「浦島太郎が、自分の姿を見ることができないので、分からなかっただけで、本当は、お爺さんのようになっていたのに、自分だけが若いつもりだった」
 ということなのかも知れない。
作品名:表裏と三すくみ 作家名:森本晃次