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表裏と三すくみ

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 ということで、そこから、変化が起こってくる。そして、その変化も決まった変化であるということから、そこに、
「自然の摂理」
 ということが関わってくるとどうなるか?
 ということであるが、結果としては、
「食料がなくなったことで、最後には餓死してしまう」
 ということになり、
「食料になるのと、食料がなくて、次第に弱っていき、餓死してしまう」
 というのでは、どっちが嫌だろうか?
 ということである。
 確かに、食べられるというのは、想像しただけでゾッとするものがあるが、それは、苦しみを感じる時間という意味では、ある意味、一瞬と言ってもいいのではないか?
 しかし、餓死ともなると、まわりが自分に襲い掛かってくるわけではないのだが、目の前にあったごちそうを食べ尽くしてしまったことで、今度は、自分が、餓死という苦しみを味わることになるのである。
 しかも、その苦しみというのは、かなりの間、感じなければいけないだろう。
 そして、苦しみというのは、自分が思っているよりも、感覚が長いもののようなので、きっと、想像していたよりも、長い苦しみを味わいながら死ぬことになるはずである。
 それを考えると、
「俺は嫌だ」
 と感じる人もいるだろう。
 宗教では、
「自殺というのは禁止している」
 ということであるが、このまま放っておいて、
「最強の苦しみが待っている」
 と考えると、
「自殺してでも、安楽死のような形の方がいいのではないか?」
 と考えたとしても、無理もないことだろう。
 だから、
「最初に動けば、最初に自分が食われてしまう」
 ということが分かっている。
 しかも、自分が生き残るということは、
「自分以外の誰か、ここでいえば、自分に対しての絶対的な強みを持っている天敵が苦しむわけである」
 ということだ。
 もっといえば、
「自分よりも立場が強い相手」
「最強ではないか?」
 と思う相手が、目の前で、もう一匹に食われてしまうのだ。
 そんな苦しみを目のあたりにされて、今度は、自分が、
「それ以上と思えるような苦しみを味わわないといけない」
 という状態になるのを、黙って運命として、受け入れることなどできるということなのか?
 という問題である。
 それを考えると、この三すくみの最後に生き残るということは、
「これ以上の苦痛はない」
 ということになるのだ。
 最後に見たものは、
「何で、誰も生きていないんだ?」
 とは思うだろうが、何が起こったのかということは、最後は餓死した死体を見た時、理解するに違いない。
 そして、もう一つというのは、
「自然の摂理」
 という大団円を考えない、
「一種の理屈」
 ということで考えると、
「一番最後というのは、自然の摂理だ」
 ということが分かるということである。
 というのも、最初から考えていくと、
「まず、自分が動いたということを考えよう」
 ということである。
 自分が動けばどうなるかというと、
「自分が狙っている相手というのは、自分を狙っているやつから見れば、天敵であるので、そちらに意識を強めるであろう」
 ということだ。
 しかし、その自分を襲うかも知れないやつを、こっちが、攻撃してくれるのだから、相手は、
「黙って、様子を見ていればいいだけだ」
 ということになる。
 そして次には、
「自分と、自分に対して、絶対的な力を持っているものが生き残る」
 ということになるわけで、そうなると、もう、自分が食われてしまうのは、
「火を見るよりも明らかだ」
 ということになるのである。
 それを考えると、
「なるほど、誰も動かないわけだ」
 ということになるのだ。
「動いたら負け」
 という考えは、この三すくみというものだけではないといえる。
 その一つのいい例として。
「将棋の世界」 
 というものがあるといえるのではないだろうか。
 将棋の世界において、
「一番隙のない布陣というのは、どういうものなのか?」
 と言われたとすれば、どう答えるというのだろうか?
 回答は、
「それは、最初に並べた形なのだ。つまり、一手差すごとに、隙が生まれる」
 ということで、
「そういう意味でも、勝負事は、必ず、最後には勝敗がつく」
 といってもいいだろう。
 何しろ、
「一手打つごとに、そこには、違う隙が生まれるわけなので、手が進むにつれて、勝敗の行方が分かってくる」
 というわけだ。
 だから、これは、減算法でしか当て嵌まらない。加算法のように、
「一から積み重ねるものは、隙という意識はなく、攻めることに集中し、
「ある程度隙がない時点になった時、勝敗が決する」
 といってもいいだろう。
 将棋の世界であったり、囲碁の世界であったりと、どちらも、
「盤の上での勝負」
 ということであるが、
「将棋が減算法である」
 というのに対し、
「囲碁は加算法である」
 というところが違うのだ。
 とにかく、
「三すくみも、同じ減算法だ」
 と考えると、三すくみが分かりやすいのではないだろうか?
 そんな三すくみの関係を、正孝は、
「自分と、ゆいなと、ゆりなの関係だ」
 と勝手に思っていた。
 普通に考えれば、
「三すくみでも何でもない」
 と思うのだろうが、実際には、三すくみの関係のように思えるのだった。
 というのも、
「何かが裏で暗躍している」
 という、まるで、テレビドラマ、それも特撮番組か、アニメでも見ているような感じだった。
 正孝は、実は、
「特撮は見るが、アニメはあまり見ない」
 ということだった。
 アニメを見ないだけではなく、マンガの方もあまり見るわけではない。その理由について、正孝は、今までに誰にも話したことはなかったのだが、自分で思っていることとしては、
「皆同じ顔に見える」
 ということであった。
 子供がそんなことを言っても、
「どうせ子供だから」
 と言われたり、下手をすれば、
「子供のくせに生意気な」
 と言われると思ったからだ。
 確かに、相手はプロなのだから、子供がいくら叫んでも、握りつぶされるというのは分かり切っていることであって、それを思えば、何も言えなくなるのだ。
 そんな中で、マンガにしても、アニメにしても、特に、
「劇画調」
 の作画というのは、どうにも皆同じに見えて仕方がなかった。
 というのは、どうしても、臨場感というものをあらわさなければいけない作品なので、皆、マンガ一つ取っても、臨場感を表すために、似たような作風になるのは仕方がないことだろう。
 しかも、そこで出てくる女性というのが、さらに、臨場感があったり、
「女スパイ」
 という感じであれば、リアルな感じになるのだ。
 しかも、中学生になってから、見た、
「エロ漫画」
 と言われる劇画調のマンガ雑誌があるが、そこでは、ハードボイルドな中に、エロいシーンを描きたてているので、余計に、エロさというものが、リアルすぎて、どぎつい描写になってしまう。
 それが嫌だったのだ。
 だからこそ、
「マンガはあまり読まない」
 ということの理由を、話そうとはしないのだった。
 聞かれることもあるのだが、
「別に細かい理由なんかないもんな」
作品名:表裏と三すくみ 作家名:森本晃次