表裏と三すくみ
ということで、片付けられるということが多いというのは、ネットで調べても、本を読んでも書かれていることだった。
「双極性障害」
というのは、基本的には、
「脳の病気」
ということで、
「黙っていても収まる」
というものではないのだという。
鬱状態というのは、いずれ、躁状態になるので、その時に、
「治った」
と思って、それまでもらっていた薬を飲まなくなるという人が多いのだということをよく聞く。
しかし、それは、躁状態に入ったからであり、そのまま薬を辞めていると、今度はもっとひどい鬱状態が襲ってきて、さらに苦しむことになるというのだ。
確かに、薬というのは、治れば飲まない方がいいに決まっている。
しかし、それを医者に相談もせずに、勝手に自分で呑むのを辞めてしまったり、まわりから、
「もう治ったんじゃないか?」
と言われて、
「薬なんか飲まなくてもいい」
と言われたとして、それを真に受けるというのは、まずいということである。
医者が、最初に、
「鬱病ですね」
と判断していたとすれば、そもそも、普通の鬱病と、双極性障害での鬱状態とでは、
「処方する薬が違う」
ということである。
それをわかっているのかいないのか、結果は、どんどん悪い方に向かっていくということである。
もちろん、長政が、本当に病気なのかどうか分からない。
ただ、長政を見ていて、その見え方が違うのか、
「他の人が見る長政と、俺が見る長政とでは、見え方が違うようだ」
と感じていた。
何がどう違うのか、最初はピンとこなかったが、後から考えてみると、
「見ている角度が違っているんだ」
ということであった。
長政という男、まわりが見ている目というのは、
「こいつ、何かおかしいんじゃないか?」
ということであったり、
「危ないから近寄らないようにしよう」
という、基本的には、
「距離をおく」
という感覚になっているようだ。
しかし、正孝は、
「どこかおかしいとは思うが、距離を置くほどではない。俺だって、孤独が好きなのだから、変わっている相手であるくらいの方が気が楽だ」
と思っていた。
そしてそのうえで、
「長政と仲良くしていると、自分のことも分かってきそうな気がするんだよな」
というのは、
「反面教師」
という言葉があるように、まわりが、長政を見ている目を通して、
「まわりが、俺のことをどう見ているんだろう?」
ということが分かるのではないかと感じたのだ。
「孤独が好きだと言っているくせに、まわりの目が気になるというのは、長政という存在があるからではないか?」
ということで、これも、一種の、
「反面教師」
という言葉に当て嵌まるのではないか?
と考えるのであった。
「俺が、長政を見ていて、その長政の眼を通してみるこの俺は、どのように映っているのか?」
それを考えると、まるで、
「合わせ鏡のようではないか?」
と感じてきたのだった。
「合わせ鏡」
というのは、自分の前後に姿見を置いて。そこに写る自分の姿をどのように感じるのか?」
ということである。
まずは、目の前の鏡に、自分の姿が映っている。
そして、その後ろには、
「自分の後ろう方が移っている鏡があるのだ」
ということである。
さらに、その後ろには……。
ということで、さらに、自分が映っているということである。
「どんどん小さく成っていくのだが、けっして消えることはない」
という、
「限りなくゼロに近い」
ということであるが、
「間違いなく、その場所に存在している」
ということなのである。
それが、
「合わせ鏡」
というもので、
「鏡というものが、さまざまな不思議な現象を見せてくれる」
ということの、一つであるということだ。
それを思うと。
「上下が反転しないのもおかしい」
と考えるのだった。
三すくみ
長政のことを気にしながら、美術部では、それまで忘れかけていた、ゆりかが入ってきたことで、びっくりさせられた正孝だったが、それは、
「俺が、ゆいか先輩を気にしている」
ということがバレるのが、気になったからだった。
別に、恋愛感情を持っているわけでもなく、付き合った経験があるわけでもない、ゆりかに対して、そこまで気を遣うということをしなくてもいいと、正孝は考えていたはずだった。
それなのに、
「なぜ、ゆりかのことが気になるというのか?」
と思ったが、それはきっと、
「ゆりかになれなれしくされて、ゆいか先輩から、誤解されることが嫌だと思ったからではないか?」
と感じたのだ。
ただ、今の時点で、自分が、ゆいか先輩のことを気にしていることを、本人には知られたくなかった。
なぜなら、自分の中で、
「どうしてゆいか先輩のことが気になるのか?」
ということを自覚していないからではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「ゆりかと俺、それにゆいか先輩の三人は、何か、三つ巴になっているのではないだろうか?」
と感じたのだ・
「三つ巴」
いわゆる。
「三すくみ」
というものである。
これは、それぞれにけん制し合うことで、まったく動けないということを示しているのだということで認識していた。
「ヘビはカエルを丸のみするが、カエルはナメクジを食べる。そして、ナメクジは、ヘビを溶かしてしまう」
という例でよく言われるのだが、もっと分かりやすいのは、じゃんけんであろう。
これは、
「グーは、チョキには勝つが、パーには負ける」
「パーは、グーには勝つが、チョキには負ける」
ということは、
「チョキはパーには勝つが、グーには負ける」
ということで、
「それぞれに、相手が、苦手であり、得意なものをもっていて、それが、まったく相いれないということで、結果、身動きができなくなってしまう」
というのが、三すくみの関係だというのだ。
だから、まったく動けない状態。
もっといえば、
「最初にどれかが動いたとすれば、最後に残るのは、自分に強い相手だ」
ということになる。
ただ、これは自然の摂理だということになると、
「最後に生き残ったものも、いずれは滅びてしまう」
ということである。
それはなぜかというと、
「お互いにそこには存在するものが、その三匹だけ」
ということを考えると、
「必ず最後には、どれもいなくなってしまう」
ということで、それは、
「寿命が尽きるから?」
というわけではなく、
「自然の摂理だからだ」
といえるだろう。
なぜなら、
「食料をすべて、食べ尽くしたのだから、あとは、餓死するのを待つばかりだ」
ということである。
この
「三すくみ」
という話の感覚として、面白い考え方がある。
その一つが、前述の、
「すべてがいなくなっていた」
ということである。
これはどういうことかというと、
「最初に見た時は、三匹が、睨みあっていて、まったく身動きもしないという状態の時だ」
といえるだろう。
しかし、どれかが、動くと、いわゆる、
「山が動いた」