二つの世界と同じ顔
ということが、いろいろなところから叫ばれていて、実際に、最近では、
「死刑の廃止」
というものに踏み切った国も少なくない。
この世界において、国家として、
「死刑の廃止」
が行われたのは、先進国に多く、まだ、後進国であったり、発展途上国というところは、まだまだ死刑が主流であった。
その差がどこにあるのかということは、正直難しい解釈であったが、その解釈をどう理解すればいいのかということが、研究材料にもなって、そこから、この国における、
「最高国家機密」
というものがいかに考えられてきたのかということが分かってくるというものであった。
ある研究
死刑というのは、この国家では、昔から行われていた。
というより、
「世界で、死刑制度のない国はない」
と教えられていて、
「死刑になってしかるべき人間がいるから、死刑執行を行うのだ」
というのが当たり前になっていた。
というのも、犯罪に対しては、
「公平であるべき」
というのが世界的な見解だった。
世界には、さまざまな主義主張があるが、この件に関しては、全世界的に一致した意見であった。
というのは、
「政治などであれば、体制や主義によって、利益不利益がハッキリし、どちらの主張が、公共の福祉に近いか?」
ということで、その優先順位が決まってくるが、
「こと犯罪というのは、
「善悪の考え方から言えば、その優先順位に変わりはない」
ということになる。
もちろん、その時の情状による場合もあるのだが、基本は、
「犯罪を犯した人間が悪い」
ということは、明白なことなのだ。
他の世界で問題となるのは、
「犯罪者側」
と、
「被害者側」
という観点である。
他の世界では、
「被害者側」
などという観点から、本人だけでなく、家族のことを考えるのが普通だったりする。
たとえば、
「凶悪犯の手によって、数人が虐殺された」
とすれば、被害者側からすれば、
「死刑にしてほしい」
と考えるのも当然だろう。
そして、犯人側の家族に対しては、誹謗中傷のあらしということで、
「まるで家族が犯罪者と同等ということで、悲惨な目に遭っている」
ただ、これも難しいところで、犯人だって、人を殺したくないと思いながらも、
「誰かの復讐」
をするということだってあるだろう。
それをいかに考えるかということになるのだが、そのすべてに、同情したり、あるいは、憎しみだけをぶつけるということになると、裁判も難しいということになる。
確かに、
「罪を憎んで人を憎まず」
という言葉があるが、本当にそうなのだろうか?
一つ一つ吟味していると、
「本当は、もっと吟味しなければいけないことがおざなりになってしまい、不公平がまかり通ることになる」
といえるだろう。
いかに、事件を解決させるかということは、
「裁判の簡素化」
ということにもつながり、何をすればいいのか、そのあたりを考える必要があるというものだ。
「裁判の簡素化」
というのは、どの世界でも、考えられていることであった。
しかし、そうなると、
「裁判の公平さが失われる」
ということから、なかなか実行されることはなかった。
他の世界においては、
「犯罪を裁く裁判というもので、国によって、温度差が違う」
ということがいわれるようになっていた。
そもそも、それは前述の。
「被害者側の家族」
と、
「犯人側の家族」
のどちらを重んじるか?
ということからであった。
普通に考えるならば、
「被害者側の家族」
に対して同情的になってしまうとどうなってしまうだろうか?
加害者側は、完全に悪者になってしまい、家族は犯人よりもひどく言われたりするに違いない。
逆に、被害者側が置き去りにされるというような社会であればどうだろうか?
これは、いわゆる、
「疑わしきは罰せず」
ということで、本当に犯人として裁かれなければいけない人だけが、証拠を持って裁かれるということになり、
「その心がどこにあるか?」
というのは、
「冤罪を生み出さない」
ということにあるのだ。
犯罪捜査というものを、人間が行っていて、決定的な証拠でもない限り、冤罪というのは、生まれる可能性は相当にある。
だから、警察においての。
「冤罪発生」
というのは、大きな社会問題であり、下手をすれば、
「隠蔽しよう」
として、却ってそれが明るみに出てしまって、結果、警察が責められる。
などということは、日常茶飯事だ。
そもそも、冤罪を生むのは、警察というものの考え方や、その体制にあるのかも知れない。
確かに、警察は、一つの組織ではあるが、細分化していけば、どこまでも細分化できる。
警察は、階級制度なので、
「縦のつながりは、まるで軍隊並み」
といってもいいだろう。
しかも、横というのも、結界と言えるくらいの垣根がある、
これも、軍隊と同じで、海軍と陸軍では、かなりバチバチの抗争を繰り広げている。その理由は、
「予算獲得」
ということでのいがみ合いだが、そのために、わざわざ同じような仕組みになっていうのに、名前を変えてみたりいと、まるで子供の喧嘩のようではないか。
警察も、似たようなもので、ちょっとでも管轄を外れれば、何もしないというような、
「縄張り意識の強さ」
には、かなりの問題があるのだった。
警察というところは、
「完全になくなってしまった軍隊」
を彷彿させるもので、正直。
「悪いところだけを受け継いだ」
といってもいいだろう。
ここの世界の警察は、そんな
「親方日の丸」
ということはなく、公務員というわけではないのだ。
もっとも、以前、
「警察を公務員にしよう」
という意見もあったようだが、
「国が持つと、軍国主義になる」
ということで、最初は専用軍直轄から、政府とは一線を画した国家体制に乗っかる形になったのだった。
そうなると、刑法というものと、警察では、
「疑わしきは罰せず」
ということになるのだ。
つまり、
「怪しいだけの場合は、シロ」
ということだ。
となると、被害者は、
「泣き寝入り」
ということが多くなる。
しかも、犯罪をあまり作りたくないとなると、いわゆる、
「親告罪」
というのが多くなるのかも知れない。
婦女暴行などが起こると、基本的には親告罪なので、訴えがなければ、裁かれることはない。(どこかのパラレルワールドでは、親告罪ではなくなったようだが)
だから、弁護士にかかると、
「起訴しない」
であったり、
「起訴されていても、被害者が取り下げたり」
などということがあるのだ。
これは、どういうことなのかというと、
特に、加害者も、被害者も未成年などであったりして、さらに、加害者の親が、金持ちだったりなどすると、加害者側の親は、
「子供可愛さ」
などということで、いい弁護士(弁護士としての職務に対して優秀だということなのだが)をつけるということになる。
すると、まずは、お金にモノを言わせる形で、弁護士は、お金での解決を図ってくるのだ。