「辻褄と、理屈の合致」
「カネミ輸送事件」
であったり。
「森永ヒ素ミルク事件」
などという悪質なものが後を絶えなかった。
「バレなければいい」
あるいは、
「黙っていればごまかせるだろう?」
などというそんな浅はかな考えだったのだろうか?
「今ほど法律が充実していなかった」
ということなのかも知れないが、逆に今充実しているのだとすると、
「そんな時代があったから、今がある」
ということになるのであろう。
そんなことを考えていると、
「中には、そんな問題となる企業であったり、行政も罪は大きいのだろうが、そのような問題とは別に、社会は次第に落ち着いていたといえるだろう」
ただ、問題は、このあたりから、また、貧富の差の激しさが見え隠れしてきたことで、それでも、
「一般基準の市民は、安定した生活を手に入れた」
といってもいいだろう。
毎日が、同じような生活で、たまに、飲みに行ったりするという楽しみがあるのが、密かな幸せということになるのだろう。
だから、よほど、
「金持ちになりたい」
という野望を最初から抱いている人でもなければ、毎日の平穏な毎日がありがたいと思えるいい時期だったに違いない。
この時代における充実感は、
「それだけ、世の中が安定してきた」
ということであり、逆に、
「それだけ、一人の力でどうにかできるということはない」
といえるだろう。
戦後であれば、
「闇市」
であったり、
「闇物資のブルーカー」
などと言われる商売をしていると、
「当時は何でも手に入ったりして、そこから、いくらでも会社を大きくすることができた」
といえるだろう。
しかし、一旦、社会が落ち着いてくると、
「闇」
というものを個人でできるということはなくなり。当時できてきた、
「反社会的勢力」
によって、世の中が成り立っていたのかも知れない。
そういう意味で、戦後から続く、ある程度までの時期には、世の中には、
「必要悪」
なるものが、たくさんあったのではないかと思うのだ。
だから、高度成長時期の後に訪れた、
「安定期」
というものは、それまでの、
「急速な発展」
というものがない代わりに、
「毎日の充実感が当たり前のようになる時代」
であり、ある意味、
「理想の時代だった」
といってもいいだろう。
そういう意味で、
「今日が、昨日の延長」
といえるような日々が、これほど大切だったのかということになるのだ。
子育てにおいて、
「明日は、今日よりも少しでもいい日にする」
ということが大切だということを言われるが、それはあくまでも、
「成長期」
「思春期」
と呼ばれる時代だから、言えることなのである。
もっと言えば、
「そんな毎日が、子供のルーティン」
であり、成長が止まり、大人になると、そこから先は、
「安定した毎日」
を送ることになる。
つまりは、
「子供の頃に、成長期を当たり前のように過ごしていると、後に控えている安定した毎日を送ることができる」
ということだ。
安定した毎日を送るというのは、
「上り詰めた先に見えるものだ」
といってもいいだろう。
だから、
「10代から先は、どんどん、毎日が早くなってくる」
と言われるようになる。
というのも、それだけ、
「一日の重さというのが重たい」
ということであり、ただ、それだけ、毎日同じ生活だといっても、
「寸分狂わないわけではない」
といえる。
「自覚している成長にいたっていないということから、平凡な毎日に見えるだけで、実際には、増えてきているものは、着実に存在している」
ということになるのだろう。
それが、自分にとっての、
「平凡な毎日だ」
ということである。
そんな毎日を過ごしていると思っているのは、錯覚であろうか。
ただ、人がいうには、
「毎日を無難に過ごしてるから、毎日があっという間に感じるのさ」
ということであったが、
「本当にそうだろうか?」
と感じるのは、今年、大学2年生になる、桜沢という男子だった。
「今までは、確かに、大学受験の時など、毎日のように、追い詰められながら勉強をしていたので、その日一日一日が、置いて行かれないようにしようという感覚で、いっぱいだった」
と思っていた。
しかし、それ以降、その時のことを思い出すと、
「アッという間だったのだ」
ただし、その時の、
「はじまり」
というのを、今から思い出すと、結構前のようなことに思え、自分の中で区切った場面での
「終わり」
というものを考えた時、
「結構最近のことではないだろうか?」
と感じるのだった。
というのは、その前に感じた。
その時期が
「あっという間だった」
ということと、完全に、矛盾しているではないか?
それを考えると、
「自分が感じている感覚は、最初に感じていた遠さに違いがあるのだろう」
ということであった。
遠くに見えている星を、星全体として見る時の感覚と、星の一番近いところと、遠いところを線で結んだ時に見える感覚は、まったく違っているのだ。
それはきっと、
「宇宙空間」
というものが、錯覚に満ちているからなのかも知れない。
星自体が皆、
「空という平面、いわゆる、プラネタリウムのような壁のようなところに映し出された映像のような錯覚から、感じているのかも知れない」
と感じるのだった。
元々、
「地球は動いておらず、天体が動いている」
という考え方だったものを、ガリレオが、
「命を張ってまで証明した地動説は、今では当たり前のようになったが。当時は、本当に、罰当たりな発想だったに違いない」
といえるだろう。
そもそも、空も星お距離まで分かるようになると、一つの空という布をかぶせたようなものではなく、
「隣に見える星も、まったく距離が違っている」
ということになるのだ。
もっといえば、
「今空で輝いた星も、今から数千年前に光った光が届いたのであって、今、存在しているかどうか分からない」
ということだ。
つまり。
「その星が光った光を地球で見るには、あと、数千年かかる」
ということになるのだ。
その星のことは分からなくても、この地球が存在していない可能性は、かなり高いことだろう。
それが、
「自然破壊により、地上に、生物が存在できなくなってしまったか」
それとも果たして、
「核戦争」
というものによって、滅んでしまっているか?
どちらにしても、
「人間の手による、自業自得の滅亡の可能性は、限りなく間違いないレベルに近いといっても尾いいだろう」
それを考えると、いまさらのように、
「持続可能な。庵とか」
などと言われているが、
「時すでに遅い」
といえるのではないだろうか?
地球というものを、
「我がもの」
と考えるか、それとも、
「地球というものがどうなろうと、人類には関係ない」
という思いからなのか分からない。
昔の人間ならともかく、今の人にとって、
「自分たちが死ぬまでに何もなければ、あとのことはどうでもいい」
という人が圧倒的に多いということであろう。
特に、日本政府の、
「お偉い方」
作品名:「辻褄と、理屈の合致」 作家名:森本晃次