「辻褄と、理屈の合致」
というのは、皆そんな感じで、今の時代ですら、
「俺がよければそれでいい」
としか思っていない。
要するに、
「票を入れてくれる人だけを大切にすれば、自分は安泰だ」
ということになるのだ。
それが今の時代の政府であり、口では、
「子供たちに自分たちの借金を負わせてどうするか?」
と言っているが、結局は、
「自分の利害と一致した」
というその時だけ、やつらは、声を大にして、自分の正当性を訴えるだけであった。
そんな政府なのだから、いくら。個人や、環境団体が口をそろえようとも、政府が、
「国家規模」
でモノを言って、世界共通の話題にしないと、
「いくら日本一国ががんばっても、結局、どうなるものでもない」
ということになるのだった。
それを思うと、
「今までの時代の政府が何もやってきていないので、こうなってきた」
ということだ。
毎日を繰り返す
もちろん、科学が発達していないのだから、当然、何も分からないだろう。
「日本の発展のために、自然環境を犠牲にしてもかまわない」
というくらいには感じていたかも知れない。
それが、日本という国をダメにするだけではなく、世界の滅亡を早めるということで、ひょっとすると、
「ノストラダムスの大予言」
を反映しているのかも知れない。
そんな大予言というものは、
「1999年7月」
と言われていたが、考えてみれば、あの予言書自体が、
「暗号のようなもので作られている」
といってもいいだろう。
だから、ノストラダムスが、
「明確に書いている」
ということは、
「裏がある」
とも言えなくもない。
それを考えると、
「額面通りに読んではいけない」
ということになるだろう。
だからこそ、
「実際に、その時何もなかった」
ということで、
「よかった」
と思っている人もいるだろうが、中には、
「含みのあることなので、これは違う時期を指示しているんだ」
ということを信じている人も一定数いるだろう。
しかも、
「世界の破滅」
というものにつながら発想は、今に限らず、あるではないか。
例えば、
「環境破壊」
という問題である、
「異常気象」
をもたらし、その中でも問題となっているのが、
「地球温暖化」
である。
その影響は多岐にわたるといってもいいのではないだろうか?
一つには、夏の暑さである。
「高温多湿」
であり、
「熱中症」
と呼ばれるものが出てきて、日本であれば、30年くらい前までは、
「夏が最高でも、33度行けば最高だ」
と言われている時代があったのは、
「今は昔」
ということになってきたのだった。
だから、
「猛暑日」
などと言われるものがあったのかどうか分からないが、気が付けば、
「35度以上は、猛暑日」
と呼ばれるようになり、いつしか、
「連続猛暑日、何日」
とまで言われるようになったではないか。
何と言っても、
「一日の最低気温が、30度を切らない」
というものである。
最初に35度を超える暑さの日でも、午前中は、まだまだ30度を超えることはなかったのに、今では、
「一日の中で30度を下回ることはない」
というのだ。
それを考えると、どれだけの異常気象なのかということが分かってくるというものだ。
そして、
「地球温暖化」
というものの、一番の問題は、
「南極の氷が解ける」
という問題である。
暑いと、当然氷は解けるというものだ。
「南極というところは、大陸で、そのほとんどが、氷でできている」
ということだ。
地球の温度が上がってくれば、南極の氷だって解けるというもので、そうなるとどうなるかというと、
海水の表面が上がってくるということだ。
そうなると、
「地表の高さは変わりないのだから、海の表面が、10センチ上がれば、人が住める範囲がかなり狭まれるということであり、海辺に家を構えている人は、少しずつ、生活ができなくなる」
ということで、
「時間が経てば、水没してしまう」
じゃあ、家を建て直せばいいじゃないか?
というかも知れないが、どこからそのような土を持ってきて、埋め立てる形にして、さらに家を建て直すかということになる、、
一つの海辺の街で、一つの市に、2000世帯があったとすれば、一体どれくらいの家を建て直す必要があるというのか?
それを考えると、実に難しいことである。
まず、埋め立てるにしても、
「どこから土を持ってくるか?」
ということになる。
「山から持ってくればいいえはないか?」
と簡単にいうかも知れないが、それだけの土地を埋め立てるのに、
「どれだけの山を崩す必要があるか?」
ということになる。
それは、自然災害と言われる、
「鉄砲水や、土石流をもたらすことになるかも知れない」
何と言っても、自然にできていたところを、
「人間の都合で崩すのだから、その後を、コンクリートか何かで加工しておかないと、自然災害の宝庫になってしまうだろう」
ただ、そうなると、さらに問題がある。
というのは、
「勝手に自然の形を変えてしまうということになる」
ということである。
例えば、山に住んでいた動物たちは、どうなるというのか?
ということである。
そうなると、生存範囲がほとんどなくなり、絶滅してしまうことになるだろう。
「人間様が生きていれば、他の動物などどうでもいい」
というようなことを平気で考えている、
「バカ」
もいるかも知れないが、普通に考えれば、
「自然の摂理」
というものを壊すことになり、
「人間が生きていくために摂取しなければいけない食料が、なくなってしまう」
ということになる。
逆に、人間にとって有害な生物を、退治してくれていた動物を、人間が絶滅させてしまったらどうなるか?
ということである。
つまり、
「自然界における摂理」
というものを崩してしまうと、人間には、どうすることもできない。
犯してしまうと、二度と元には戻すことがっできない過ちというものは、自然界にはたくさんあるということになるのだった。
それを考えれば、
「人間は今まで分かっていなかったから、自然破壊を続けてきたのか?」
あるいは、
「分かってはいるが、自分たちの世代では、直接被害がないから、自分たちの時代をいかに快適に過ごすかということだけを考えて、分かっていて敢えて、行ってきたということなのか?」
ということである。
もし、後者であれば、許しがたいことであるが、今の自分たちは、果たしてどうだろう?
一部の人間は、何とか未来に希望を残すというような活動をしていて、宣伝もしているが、それが、社会全体からすれば、どれくらいなのだろうか?
そもそも、危惧を与える政府だって、かつては、後者だったことだろう。
政府に、
「そんな当たり前のことが分からないなどありえない」
ということであり、
「日本という国冴えよければ」
と考えていたかも知れない。
というのは、
「世界では、分かり切っていることであっても、自分たちの今というものを考え、世界レベルで考えることのできない」
作品名:「辻褄と、理屈の合致」 作家名:森本晃次