「辻褄と、理屈の合致」
だから、家にある着物であったりを、売りにいくのだが、それもなかなか思ったほどの食料にはならない。
田舎の人も足元を見たりする。なぜなら、それだけ、たくさんの人が毎日のように、物々交換を申し出てくるのだから、もう、交換してもらうものも、増えすぎて困るくらいになるだろう。
そうなると、立場は完全に田舎の方が強いというもので、それが、その時代の特徴だった。
だが、そのうちに、
「もはや戦後ではない」
と言われるようになり、経済も落ち着いてくると、それまでのような、
「物々交換」
などしなくても、普通に仕事で稼いだ金で、物資が揃うようになってくると、都会の機能はどんどん発展してきて、特に、
「朝鮮戦争の特需」
にて、
「奇跡と言われた、戦後復興が叶ってくるのだ。
そうなると、インフラの整備が問題になってくる。
「ライフラインの充実」
「交通網の整備」
など、いろいろやりことは絶えずあるのだった。
そうなると、人手不足ということになり、今度は、田舎から、都会に子供が就職してきたり、さらには、大人も、労働力として、出てくることになったりする。
それが、学生の、
「集団就職」
というものであったり、大人の、
「出稼ぎ労働」
というものだったりするのだ。
学生の、
「集団就職」
というのは、大企業が、人手不足を補うのに、田舎の学校を出た生徒を一定数雇い入れるということで、
「一から育てる」
ということで、その後にある程度確立してくることになる、
「終身雇用」
であったり、
「年功序列」
と言われるものの、基礎になったことであろう。
逆に、田舎にとっての、
「一家の長」
と言われるような人が、
「出稼ぎ」
ということで、都会に出てくるのは、
「半永久的な就職」
というよりも、当時のインフラ整備のための、一種の、
「日雇い人足」
と言われるような人材で、特にインフラ整備として、高層ビルであったり、鉄道網の充実、これは、新幹線開業に繋がるもので、さらには、道路にての、
「高速道路の建設」
というのも、急ピッチであった。
だから、
「人材はいくらいても困らない」
ということだ。
それが、
「高度経済成長」
というものを支え、
「「やればやるほど、儲かる」
という時代でもあった。
特に、1950年代後半から、60年代に掛けては、景気の良さ、悪さというものを繰り返しながら、徐々に、世の中が発展していったのだ。
その間にいくつかのイベントを通り過ぎていく。
それが、
「東京オリンピック」
であったり、
「大阪万博」
だったりするのだった。
特に、オリンピックというと、
「戦後復興のシンボル」
ということで、日本を世界にアピールするには、絶好の機会だったのだ。
そのために、
「外国に、いいところを見せなければいけない」
ということで、表向きには、インフラの整備や、経済成長というものをアピールし、逆に、それまでの戦後の名残として残っていた、
「バラックであったり、差別の象徴でもあった、部落問題などを、何とかしていくということも問題だったのだ」
といえるであろう。
しかも、当時の問題として、
「なんといっても、風俗などの、夜の街というのは、見せられないもの」
ということで、潰れていきかけた存在だった。
何とか、影で営業を続け、尊属はしていたが、その後も、その対象となる街で、何かのイベントが行われるということになると、
「風俗などが中心になって、摘発を受けるような厳しい状況になっていく」
ということが、当たり前のようになっていくのだった。
それでも、性風俗などでは、
「トルコ問題」
といって、名前を変更しなければいけない時代に入った時、
「風俗営業法」
というものに守られ、それまで、グレーゾーンの中で、影ながら肩身の狭いような思いで営業をしていたものが、法律で縛られるということになるが、守られるともいえて、
「市民権」
というものを持った、れっきとした業界として確立されることにもなったのだった。
しかし、
「東京オリンピック」
「大阪万博」
などというのは、さすがに規制が厳しいものとなっていたのだが、インフラ整備というのは、でかせぎを募らせ、とにかく、
「人材確保」
というのが、第一だったのだ。
そのため、今から思うからなのかも知れないが、その暮らしは、決していいものではなかったといってもいいだろう。
都会に出稼ぎにきても、ホテルのようなところであったり、マンションのようなものが完備しているわけではない。
労働者が暮らすところは、大広間みたいなところに、たくさんの人が押し込められ、その中で、まるで、
「ウナギの寝床のようなところ」
であったり、
または、木造の二段ベッドのどちらかが、自分のいるスペースということで、荷物を置くと、
「どこに寝るんだ?」
というほどの狭いところに押し込められるというわけだ。
夏の暑さや、冬の寒さは、想像を絶するようなものだろう。
ただ、そうでもしないと、田舎での農業だけではやっていけない時代になった。
モノが豊富に揃ってくると、農作物を都会に売るといっても、その価格は、
「戦後」
とは、価値がまったく違っていただろう。
戦後であれば、
「闇物資」
ということで、いくらでも、高価なものとなったであろうからだった。
時代は、そんな、
「とにかく、今日一日を生き残ることができた」
というほどの、毎日が必死になって生きていた時代ではなくなった。
あの頃は、いつ、
「栄養失調で倒れても無理もない時代」
ということで、
「死んだ人がいても、その人にかまっている場合ではない」
ということだったのだ。
それでも、何とか、
「奇跡の経済復興」
が行われ、イベントにて、日本の復興を、アピールできるようになると、時代は、かつての、
「波乱万丈の毎日」
というものから、今度は、
「平凡な毎日」
を求めるようになったのだ。
毎日のように、朝から晩までという、労働時間の中で、月給というものを貰い、そこで、生活をする、
結婚して、家庭ができれば、子供が生まれ、生活ができるようになる。
そんな時代が出来上がってくると、時代は、
「モノがあふれる時代」
となってきた。
すると、高度成長時代を通り越してみると、今度は、その反動としての、いろいろな社会問題が起こってきたりする。
かつての
「部落」
であったり、差別問題などの解決に向けた
「同和問題」
であったり、
物資を供給するという意味での、工場における、産廃物や、それらの処理により問題となってきた、
「公害問題」
などという深刻な問題が出てきたのだった。
特に、
「水俣病」
や、
「四日市ぜんそく」
などという地域を指定した問題であったり、
「イタイイタイ病」
などという、よく分からない問題などの、いわゆる、
「四大公害問題」
というのがあった。
それは特に、
「そうなることが分かっていて、それでもやっていた」
という、
「確信犯的なところがあった」
ということが問題だった。
それと同じもので、
作品名:「辻褄と、理屈の合致」 作家名:森本晃次