「辻褄と、理屈の合致」
大人だから分かることがあり
「このまま突っ走ると、危ない」
と大人になっているので分かることを、子供がいうとして、まわりは、
「どうしたの?」
といって不審がることだろう。
あくまでも、
「子供だと思っている」
ので、急に大人の考え方を示すと、
「どうかしたのかしら?」
と、何かの精神疾患を疑われないとも限らない。
もちろん。疑われて当たり前のことである。
「どうもしないさ」
といっても、大人は気持ち悪がるに違いない。
それを、大人になってある程度社会を理解していると、今度は、
「子供には帰れない」
と思うことだろう。
そもそも、
「子供に戻って、やり直したい」
と思っているのだから、大人の気持ちでいかなければ、子供に戻った意味がないというものだ。
分かっているだけに、大人の行動ができないというのは、それこそ、変なストレスを抱えるだけであり、それが、人間の成長というものが、
「年相応でなければいけない」
という理由になるのではないだろうか?
そんなことを考えると、
「タイムリープ」
というのが可能で、過去に戻れたとしても、それが、
「大人の自分」
でないと意味がない。
ただ、そうなると、その時代には、子供の自分がいるわけで、同じ人間がいくら年が違っているとはいえ、存在しているというのは、いわゆる、
「タイムパラドックス」
というものに反する。
ということになるのであろう。
ちなみに、この、
「タイムリープ」
という考え方は、
「タイムパラドックスというものが、起こらないということへの証明として考えられたものだ」
と言ってもいいだろう。
確かに、過去の自分に、乗り移るのだから、それも当たり前だといってもいいだろう。
ただ、この考え方として、小説などでよく言われるものとして、
「タイムリープ」
をした人間は、実はちょうどその時に、死んだということではないか?
という考えであった。
死ぬと、肉体から魂が離れるということは、一般的な考えだが、
「そのたましいが、どうなるか?」
というのは、結構いろいろな発想があるようだ。
中には、
「同じ時代の誰かに乗り移る」
という考え方であったり、
「成仏できずに彷徨う」
などという形で、あの世に行かずに、この世を彷徨うというものだ。
だったら、死んだ時に、
「小学生からやり直せたらな」
と思ったとすれば。その時に、タイムリープが起こったとしても、無理はないことではないか。
つまりは、
「何でもあり」
ということではないかといえるのだろう。
「タイムリープ」
によって、過去にいけば、
「じゃあ、過去の自分に乗り移ったとして、過去の自分の魂というのは、どこに行ったのだろうか?」
ということになる。
「それこそ、憑依したということになるので、元々いた魂は、眠ってしまって、奥に隠れているということになるのかも知れない」
といえる。
もしそうであれば、ある時期、
「記憶喪失になっていた」
という時期があり、その間に、その人の知らないような記憶があった。
あるいは、
「普通ではありえないような、それこそ、未来の話をし始めた」
ということで、
「誰かが乗り移った」
と考える人もいるかも知れないが、それよりも、
「気が変になったのではないか?」
と言われるであろう。
だから、逆に、
「未来のことを話し始めたとしても、それは、戯言であって、誰も未来を知らないことから、まるでオオカミ少年のような、狂言壁という様相を呈するというような、隠れていた性格が表に出てきたのではないか?」
と言われるようになったのではないだろうか?
それを考えると、
「タイムスリップ」
というものには、かなり、いろいろな制約があり、タイムスリップをしても、見つからなければ、そして、その時代に何ら影響を与えなければ、本当であれば、
「何もない」
といってもいいだろう。
しかし、同じ自分が出会って、
「相手が自分だ」
と認識してしまうと、その危惧は、
「限りなく問題が起こる」
ということに傾いてしまうことだろう。
それを考えると、
「今の世の中において、タイムスリップは、本当に危険だ」
ということになり、
「時空警察」
なるものがいても、おかしくはないだろう。
その連中が、タイムスリップを、
「犯罪だ」
ということにしてしまっているとすれば、今度は、それを逆手に取り、金が動くというようなことで、暗躍をするやつもいることだろう。
まるで、
「ドッペルゲンガー」
であり、もう一人の自分が、存在しているというのは、何も、
「まったく同じ時代の自分である必要はない」
といえる。
「タイムスリップとの抱き合わせ」
という考え方であれば、ドッペルゲンガーという存在もありえるわけだ。
もし、近未来で、
「タイムマシン」
が完成し、
「タイムスリップ」
が可能ということになれば、それは、
「ドッペルゲンガーを可能ならしめるという証明」
としても、考えられるのかも知れない。
つまり、
「未来において、過去を変えてしまう」
ということが可能な者が発明されれば、
「過去がすべて変わってしまう」
といえるだろう。
ただ、中には、すでに、タイムマシンのようなものが開発されるということを、信じて疑わないという人がいるとすれば、
「その人にだけ、ドッペルゲンガーというものが見える」
ということになったとしても、無理もないことに違いない。
といえるだろう。
だから、
「ドッペルゲンガーを見ると、近い将来に4死ぬ」
というものが、
「精神疾患によるもの」
などともいわれているが、有力な説として、
「タイムパラドックスの証明になる」
というものもあるようで、その発想が、
「今の時代にも、有力な説として言われている」
ということになるのだった。
そんな、
「タイムスリップ」
というものは、いろいろと危険を秘めているようだが、
「ドッペルゲンガーの存在」
であったり、
「ドッペルゲンガーを見たので、死んでしまった」
という人が多いということから、
「タイムパラドックス」
という説も、
「まんざらではない」
と言われるのも、無理もないことだといってもいいだろう。
そもそも、
「タイムスリップ」
というものが主流で、
「タイムリープ」
という考え方は、あまりなじみのあるものではなかった。
どこから来たのかは、分からないが、
「タイムパラドックス」
というものの矛盾を解消するということから、言われるようになったというのであれば、「その説もあり得ないことではない」
といえるのではないだろうか?
「タイムリープ」
というものは、小説にすると、辻褄を合せるのは難しくはないかも知れない。
というのも、忘れているかも知れないとはいえ、
「自分が生きてきた時代に、年を重ねてから戻るのだ」
しかし、その時に戻って、
「懐かしい」
という気持ちになったとしても、どうしても、その時の自分に戻ることはできない。
なぜなのかというと、
作品名:「辻褄と、理屈の合致」 作家名:森本晃次