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「辻褄と、理屈の合致」

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「自分が戻ってきた身体には、前からいた自分がいるのだ」
 ということだ、
 たぶん、行動不能という形になっているのだろうが、
「同じ自分がいる」
 ということで、ここで、一種の軽い形の、
「タイムパラドックス」
 のようなものが働いて、
「自分の意識の、子供の頃に戻ることは絶対にできない」
 となると、本人は、
「戻れるはずだ」
 と思っているとすれば、戻れないことでの、ジレンマであったり、憤りのようなものが働いて、
「結局、どうにもならないという現実と、ぶつかってしまう」
 ということになるのではないだろうか?
 そんなことを考えてみると、
「タイムリープ」
 というのは、本当の、
「タイムパラソックスの証明」
 ということになるのだろうか?
 そう考えると、
「タイムパラドックスが起こる映画」
 などでは、いくつかのラストがあるが、その中で一番しっくりくるものとして、
「歴史を変えてしまう瞬間に訪れる前に、もう一度、タイムパラドックスが起こり、結局何もできないまま、意識だけを持って元の世界に帰る」
 ということだ。
 そうなると、
「では、なぜ、タイムパラドックスが起こって、過去に行ったのか?」
 ということになる。
「じゃあ、タイムパラドックスというものに、何かの信憑性というものがあるということなのか?」
 ということになるのだ。
 というのは、
「ただ、タイムパラドックスが起こった時、世界は破滅する」
 あるいは、
「宇宙がビックバンを起こす」
 などと言われていたが、
「必ず。最後には辻褄を合せるように、何も起こらないようになっている」
 ということを映画で証明しようとしたに過ぎないだろう。
 確かにそのラストの方が、
「いかにも、当然」
 という感覚になるのだが、その発想は、当たり前のこととして、
「宇宙的な発想」
 であっても、結果、辻褄を合せるということを証明しただけで、
「タイムパラドックス」
 というものが、
「歴史にいかに影響を及ぼすのかということは、ハッキリと分からない」
 ということだ。
 だから、
「歴史は答えを与えるよりも、何も起こらない」
 といった証明の方が大切だと考えてのことであろう。
 あくまでも、
「人間が考える、理屈である」
 というわけなので、いくらでも解釈ができるわけで、映画などは、その面白さ、つまりは、
「エンターテイメント性」
 というものが、大きな問題となるということである。
 また、この、
「タイムスリップ」
 と、
「タイムリープ」
 との関係性とは、少し違ったものが、存在している・
 というのは、
「タイムループ」
 という考え方があるのだ。
 この考え方は、
「タイムスリップ」
 ではなく、
「タイムリープ」
 という考え方になるものだ。
 というのは、
「ループ」
 つまり、
「繰り返す」
 ということであり、それは、
「ある一定の区間を、何度も繰り返している」
 という発想だ。
 だから、戻った過去には、自分しかいないわけえ、肉体ごと時代をさかのぼるわけではない。
 そうなってしまうと。
「繰り返していきながら、自分は永遠に増え続ける」
 ということになるからだ。
 だから、繰り返したその世界にいるのは、自分でしかなく、意識を持ったまま、過去に戻るということで、
「タイムリープ」
 になるのだ。
 しかし、それは、
「一度だけ戻る」
 というわけではなく、
「何度も繰り返す」
 ということになる。
 時間というものは前に向かって五系列に続くことで、
「永遠に続いたとしても、そこに違和感はないのだ」
 ということであるが、
「過去に戻る」
 ということが、その瞬間では絶対ということになれば、
「繰り返す」
 ということが永遠に続くということだ。
 それは、繰り返されることが、
「自分の手によるものなのか?」
 あるいは、
「自分の意思にかかわらず、繰り返されるということであるか?」
 ということを考えれば、
「後者の方が圧倒的に信憑性が高いに違いない」
 といえることだろう。
「タイムループ」
 というものに、制限があるというのが、SF小説などの発想だ。
 特に、
「SF小説に、ミステリー的な要素が加わる」
 ということになれば、
「この繰り返している間に、示された謎を解かないと、お前か、お前の大切な人が死ぬことになる」
 などという脅しがあったりして、その謎解明のために、
「タイムループというものを、根本から考えるか?」
 あるいは、
「自分だけに起こっているものとして考えるか?」
 というところから始めるというストーリーの小説は読んだことがあった。
 これは、
「時代を繰り返す」
 という意味で、
「循環」
 という考え方から、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
 という発想に近いものがある、
 ということで、考えたことがあったものだ。
「自然の摂理」
 にしてもそうだが、
「物事には循環、これが人の一緒になると、輪廻転生という考えがあるのではないだろうか?」
 と考えられると思っている。
 小説というものだって、理屈から、エンターテイメントに発展させているのだから、甘く見るものではない。
「事実は小説よりも奇なり」
 というが、実際に、小説が、事実ということだってあったりする。そうなると、エンターテイメント性が高いだけあって、
「逆も真なりだ」
 といえるだろう。

                 大団円

「タイムループ」
 というものが、
「タイムスリップ」
 に違反したことでの、罰則ではないか?
 と考える人もいるようだ。
 普通であれば、
「タイムループ」
 を繰り返していることを、
「知られてはいけないことだ」
 ということであれば、
「同じ日を繰り返している人がいる」
 ということに気付いた人がいるというのは、
「理論的におかしい」
 といえるだろう。
 だからこそ、
「言わなければ分からない」
 ということであり、もっとも、
「言ったところで、誰も信じるわけなどありえない」
 といえるのではないだろうか?
 ということを考えるのは、
「同じ日を繰り返しているのだから、次の日には、その人はいるはずがない」
 という考えになるからだった。
 しかし、もし、昨日まで一緒にいた人が急にいなくなったとすれば、友達であったり、家族は、
「おかしい」
 ということで、騒ぎ出すはずなのに、何もないということは、
「実際に、翌日には、自分という存在がいる」
 ということになるのだろうか。
 その場合、
「同じ日を繰り返している自分とは違う自分が存在しているということであり、昨日からの延長線上ではない」
 と言われるのだろうが、もしそうだとすれば、意識はどうなのだろう?
 昨日までのことを言われて、まったく記憶が繋がっていなければいけないのっで、
「同じ日を繰り返す自分とは別に、見性に向けての自分もいる」
 ということになる。
 ということは、もっと考えれば、
「明日の自分も、毎日同じことを繰り返している自分であって、意識は昨日から受け継がれたものであるということから、同じ日を繰り返している自分と同じなのではないか?」