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「辻褄と、理屈の合致」

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 いくらおとなしいカメだといっても、大の大人を背中に乗せて、海に入ることができるほど、大きなカメである。
 そんなカメを子供たちが、苛めることができるというのか、そのあたりも、少々疑問が残るというものだ。
 しかし、やはり、竜宮城と、地上との行き来であり、浦島太郎だって、一番最初にカメが海に入っていった時は、相当驚いたことだろう。
 何しろ、
「人間は、空気のないところで生きられない」
 ということは、いくら何でも分かっていることのはずで、
「海に入ると、溺れ死ぬ」
 ということを知らないはずはないだろう。
 それを思うと、
「ワームホールのようなものを通っただけで、本当は、海に入っていったのではないのではないか」
 ということが考えられるのではないだろうか?
 さすがに海に入るよりも、どこかの少し暗い洞窟のようなところの方が、それほど、恐怖はないというものだろう。
 ただ、
「もし、カメが、催眠術のようなものを持った動物だったとすれば、どうだろう?」
 浦島太郎は、海の底に蠢いていたのであって、
「気がつけな、竜宮城についていた」
 ということなのかも知れない。
 海の底というところが、自分の中において、
「まるで、母親の羊水の中にいるような気持ちになっていた」
 ということだとすれば、それは、実にムリもないことではないだろうか。
 ちなみに浦島太郎の話には、続きがあるという。
 というのも、これが児童に対しての、
「教育の一環」
 だとすると、どこかがおかしい。
「カメを助ける」
 という、
「いいこと」
 をした太郎は、少なくとも、
「報われなければいけない」
 ということのはずだ。
 しかし、最後は、
「玉手箱をあけると、お爺さんになってしまった」
 ということで、まったくのハッピーエンドではないではないか?
 ということであった。
 実は、この話には続編があるのだが、明治政府は、玉手箱をあけるところをラストにして、敢えて、ハッピーエンドにはしなかったのだ。
 なぜなら、この話では、
「玉手箱」
 を乙姫様からもらう時、
「決して開けてはいけません」
 と言われたにも関わらず、それをあけてしまったという、おとぎ話や神話にありがちと言われる、
「見るなのタブー」
 というのがあることで、
「最後は、ハッピーエンドにはしない」
 ということになるのだ。
 それがどういうことなのかというと、ひょっとすると、
「ラストに何かの秘密が含まれているのかも知れない」
 と考えられる。
 というのは、ラストというのは、
「太郎のことを好きになり、忘れられなくなった乙姫様が、カメに姿を変え、地上に上がってきた」
 という。
 そして、
「お爺さんになった太郎を、鶴に変えることで、二人は、永遠に愛し合って生きた」
 という、
「ハッピーエンドだ」
 ということである。
 明治政府が、敢えて削除した最後のシーンは、
「政府にとって、都合の悪いことが書かれていた」
 ということであろうか?
 考えられると、
「お爺さんが、鶴になってしまった」「
 ということで、そのラストシーンの概念が、
「不老不死」
 ということになる。
 つまり、この話の根底にあるのは、
「鶴と亀」
 ということでも分かるように、
「不老不死」
 ということであろう。
「なぜ、明治政府に都合が悪かったのか?」
 ということは、正直、よく分からないが、
「不老不死」
 というものを、明治政府が、
「国家ぐるみ」
 で、
「最高国家機密というレベルで、開発をしていたのかも知れない」
 とも考えられる。
 いや、それよりも、
「不老不死」
 というものが、
「無理なことだ」
 と考えることで、国家のスローガンとしての、
「富国強兵」
 であったり、
「殖産興業」
 というものの邪魔な発想になるとすれば、当然、その考えを削除する必要がある。
 おとぎ話の中には、
「実は続編があった」
 と言われるものも多く存在し、学校教育の中で、
「よろしくない」
 と考えられたものが、削除されることになるというのは、当たり前のことだったということなのだろう。
 それを考えると、この話の教訓であったり、根幹のテーマとなるところのものは、
「不老不死」
 だったということで、
「明治政府はそれを警戒していた」
 ということになるのだろう。
「不老不死は、不可能だ」
 と考えたのか、それとも、当時から問題だった。
「食糧問題」
 というものから、
「労働力のない老人をずっと生かしておく」
 というのは、現実的ではないといえるだろう。
 中国における、
「西遊記」
 という話などでは、
「妖怪は、徳のある坊主の肉を食らうと、不老不死の力を得ることができる」
 ということで、行く先々で、
「三蔵の命が狙われる」
 というのが当たり前のようになっていくのであった。
 ただ、この話は、
「人間が、不老不死を求めている」
 というのではなく、あくまでも、
「妖怪が求めている」
 というわけである。
 そもそも、妖怪は、
「数千年から、数万年生きる」
 と言われているのだから、人間から見れば
「不老不死のようなものだ」
 といえるだろう。
 ただ、人間が、
「不老不死を求める」
 というようなことをするだろうか?
 それが、あの浦島太郎が地上に戻ってきた時の感覚ではないだろうか?
 というのも、
「地上に帰ってきた時の浦島太郎というのは、変わり果てた世界で、しかも、自分が知っている人、自分を知っている人が誰もいない」
 ということに、大いなる失望をしたわけである。
 それおを、追いかけてきた乙姫が、自分を愛してくれているということが分かり、二人は、自分たちだけの世界で、永遠に幸せだったということになる。
 しかし、人間だけの場合はそういうわけにはいかない。
 例えば一人だけが不老不死の薬で、
「老いることも、死ぬこともない」
 ということになれば、愛する人を自分が、
「見送る」
 ということになり、
「死ぬことがないということは、自分が好きになった相手は、次第に年老いて死んでいくのだ」
 ということなのだ。
 それを、自分は、永遠に見送り続けなければいけなくなってしまう。
「もう、こんな生活は嫌だ」
 ということになっても、死ぬことの選択肢は、自分にはないのだ。
 当然、
「不老不死の力が備わっている」
 ということは、
「自殺ということも許されるはずなどない
 ということになる。
 というと、
「不老不死」
 というのは、最後には、
「やるせない気持ちに到達することで、しかも、それが、永遠に続く」
 ということになるのだ。
 つまり、
「人間にとって、不老不死というのは、これほどの、無用の長物というものはない」
 といってもいいのではないだろうか?
 浦島太郎の話は、そういう意味絵、その、
「不老不死への、後先を考えないという発想ではないか」
 と考えると、ラストは、到底容認できるものではないとするならば、
「見るなのタブー」
 というものに、話を持って行くということしかできないだろう。
 ということになるのだ。
 そんな浦島太郎のお話は、それだけ、
「人間物語」