小説の書かれる時(前編)
「日本の運命というのは、それぞれのターニングポイントで、いつも、日本国が助かるという偶然と言えばいいのか、やはり神がいるとでもいうのか、そういう意味でのミステリーというものが、存在している」
ということなのであろう。
歴史とプログラミング
ここにある芸術家がいる。
彼は、昔からのアトリエを改良することもなく、昔からのアトリエを使っていた。
それは、まるで、昭和初期に近いようなもので、今にも壊れそうに見えるのだが、老朽化への備えはしっかりしているようだ。
ウワサでは、
「外見は昔のままでも、その強靭さは、台風くらいでは、ビクともしない加工をしてある」
ということであった。
確かに、見た目は今にも潰れそうなのだが、警察からも、国交省からも、何も言われないというのだ。
ただ、最近流行の、
「線状降水帯」
などの発生による浸水に関しては、他と一緒でどうすることもできないということだが、おれはしょうがないということであろう。
彼のアトリエは、家の離れのようなところにあり、その横には土蔵のようなものがあり、
「昔からの大金持ち」
ということを感じさせるのだった。
彼の名前は、
「足柄霊光」
という。
驚いたことに、それが本名だということだから、
「まるで芸術家になるべくして生まれてきたようなものだ」
と、子供の頃から。自他ともに認めるという名前であった。
それを思えば、
「親も酔狂な人間だったのではないか?」
ということであるが、それは、確かにその通りのようで、
「子供を芸術家にしたい」
という意識はあったようで、やはり、こんな名前をつけたのは、
「芸術家になってほしい」
ということからだったようだ。
子供の頃は、名前で損をしたことはなかった。苛めもなかったのだ。
「金持ちの考えることはよく分からない」
ということで、親たちは、
「あの子に関わるようなことをしちゃいけない」
と自分の子供に言い聞かせていたのだろう。
だから、子供も、親のいうことを聞いて。
というよりも、自分たちで、
「あいつは気持ち悪いから、関わるようなことはしない」
と思っていたのだ。
足柄としても、
「別に友達なんかほしいとは思わない」
と思っていたのだ。
別に寂しいなどと思ったこともないし、
「寂しいというのがどういうことなのか?」
ということすら、分かっていなかったということである。
孤独というものがどういうことなのかを知らないまま、小学生時代を過ごしてきた。
「さぞや、長かっただろうな」
と周りは思っているだろうが、本人には、そんな感覚はなかった。
実際に、
「毎日のように、あっという間に一日が過ぎた」
と思っていて、しかも、
「気が付けば、一年も過ぎていた」
というほどのあっという間だったと思っている。
ここが、他の人と違うということを、足柄は分かっていなかった。
もっとも、この感覚は足柄だけが分かっていないだけではなく、他の人も分かっていないだろう。
それを足柄は分かっていたが、他の子供たちは分かっていなかった。
それは、
「孤独ゆえに、他の人たちよりも、感受性であったり、自分の感覚というものが、研ぎ澄まされたものではないだろうか?」
ということではないかと思うのだった。
普通の少年、これは大人になっても同じことであるが、時間の感覚とは、
「その間のインターバルというものによって、普通は同じ人であれば、感じ方が違っているものである」
というのが、一般的な感覚であった。
ただ、そのことを誰かが口にするわけではないので、いわゆる、
「暗黙の了解」
という形になっていた。
確かに、
「一日があっという間に過ぎる時、その時の一週間が、やたら長いと感じたり、逆に、一日が長かったと思うと、一週間があっという間だったりする」
ということがあったのだ。
それは、別に、
「口にしてはいけないことではない」
と思うのだが、なぜか誰も口にしない。
誰も口にしないから、
「口にしてはいけないことなのだ」
と、勝手に自分で解釈し、口にすると、何か余計なトラブルにでも巻き込まれるかのように感じたりするのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「俺たちにとって、余計なことを口にすると、親に叱られる」
という意識が身につく時期が、子供のうちにはあるのかも知れない。
ただ、それには、個人差というものがあるのだろうが、それはあくまでも、
「親の都合」
というものであり、親同士が仲がよかったりすれば、自ずと、子供が感じる時期というものは、近づいていくのかも知れない。
そんなことを考えていると、
「親子の関係というのは、子供が小さい時は、その影響力は強いものなのだろう」
といえるだろう。
子供というのは、大人の影響をいつの時期まで受けるものだろうか?
小学生の頃というと、どうしても、受けるのは当たり前だ。
大体において、13歳未満というのを、
「児童」
ということで、区別されることが多い。
それは、やはり、
「肉体的な変化」
によるところが大きいのではないだろうか?
いわゆる、
「思春期」
「成長期」
と呼ばれるものだ。
子供が大人になる過程において起こってくるのが、精神面でいえば、
「思春期」
そして、肉体面でいえば、
「成長期」
ということになる。
もちろん、精神面と肉体面で、その境目が難しい場合には、精神面であっても、
「成長期」
と言ったり、肉体面であっても、
「思春期」
ということで、心身ともに、そのどちらかということで、判断されることになるものだろう。
親子であっても、さすがに子供の成長をすべて把握するなど無理だというものだ。
むしろ、
「親子だからこそ、難しい」
といえるのではないだろうか?
というのも、
「親というものは、自分の子供を、自分の分身だ」
と思うことがある。
つまり、
「子供も、自分の子供の頃と同じ考えを持っている」
と思い込んでしまうようだが、実際には、人間の性格というのが、
「持って生まれたもの」
というだけではなく、
「育ってきた環境に左右される」
ということが分かっていないのだろう。
つまり、親というのは、子供の頃に感じることとして、親から、
「理不尽な言い聞かせ」
のようなものがあった時、
「親だって、子供時代には、俺と同じ考えを持っていたはずだ。それなのに、どうして、子供の気持ちが分からないんだ?」
と感じる。
それは、子供が、
「自分が親から生まれたのだから、当然同じ遺伝子で繋がっているので、同じ考えをするはずだ」
と思うだろう。
だが、親が、子供にとって理不尽なことをするのであれば、それは、子供としては、
「親というものを許せない」
と考えるに違いない。
さらに、親も、
「自分と同じ頃には同じことを感じ。親から同じ怒られ方をするだろうから、親になったら、子供には、同じ理不尽な思いをさせたくない」
と考えるに違いない。
作品名:小説の書かれる時(前編) 作家名:森本晃次