小説の書かれる時(前編)
「だから、俺だって、大人になったら、子供には同じような理不尽な怒り方は絶対にしない」
と考えているのだ。
だから、大人と子供というのは、
「一心同体のはずなのに」
と感じるのだろう。
「大人になって、子供を持つと、子供の頃のことを忘れていくものなのだろうか?」
と考えるが、
すれが、
「忘れていく」
と考えるのは、危険ではないかとも思えるのだった。
ただ、大人になる間に、何が起こるのか、子供には分からないが、大人になってしまうと、まわりの環境が、そう感じさせるように自分を仕向けるのか、それとも、
「人間が大人になるということが、どういうことなのか?」
ということを思い知ることになるのかということを思い知るという気もして仕方がないのだった。
大人になると、余計なことだと思っても、
「考えなければいけない」
と思うことがある。
だから、
「子供の頃には、もっとシンプルに考えていたのにな」
と思うのだ。
大人になってから、
「子供の頃に戻りたい」
という意識を持つ人がほとんどであろうが、それは、
「子供の頃は、何も考えなくてもよかったから、楽しかったな」
と感じていると思っているのかも知れないが、実際には、そういうことではなく。
「子供の頃もいろいろ考えていたのには違いないが、大人になってから考えると、どうしても余計なことを考え、子供の頃であれば、シンプルに考えていたことが考えられなくなり、シンプルに考えてしまうと、それは悪いことだ」
と判断するのだろう。
だから、
「大人になったら、親から受けたような仕打ちを子供にはしない」
と思っていたことを忘れたわけではないのだが、それをしてしまうと、危険なことが起こるかも知れないということが頭から抜けないからだろう。
つまり、大人になるということは、そういう子供の頃を思い出すことで、余計に必要以上のことを考えて、
「やっぱり、子供の頃は浅茅江だったんだ」
と思うことで、親が自分にしていたことが、急に理不尽ではなくなってくるのだ。
だから、子供を叱るのだし、理不尽でもないのだ。
そして、
「これが大人になるということだ」
と思うと、
「親になったら、理不尽な怒り方はしないぞ」
と思っていたことを忘れたわけではないが、その考えが間違っていたということに大人になって気づいたと思うのだ。
だから、
「それを子供に諭すというのは、あり得ないことだ」
と感じる。
もし、自分が子供で、親から、その理屈を諭されたとしても、しょせんは子供の頭で理解できるわけがないことを諭されるのである。
そうなると、
「親が理不尽な言い方で諭しに来た」
としか思えないので、
「親のいうことを聞くわけもない」
ということになるだろう。
子供としては、
「親は理不尽だ」
と思うが、
「思いたいなら、思わせておけばいい」
ということになる。
つまり、
「親であればこそ、説教しないといけないという立場なのだから、できるだけ、嫌われたくないようにするしかない」
と考えると、
「諭すようなことは、逆効果で、なるべく、これが当たり前だというような、大人としての毅然とした態度をとるしかないのだ」
だが、今の時代においては、それがままならない時がある。
昔であれば、
「親の威厳」
ということで、殴るなどというのが一つの手段であったが、今は指一本でも手を出すと、
「虐待」
と言われてしまうのだ。
それは、正直なところ、どういうことで虐待が始まったのか分からない。
それぞれに理由というものがあり、その虐待を、親の方は、すべてにおいて、
「これは教育の一環だ」
あるいは、
「しつけだ」
という言い訳をするだろう。
しかし、虐待ではない、本当の、
「教育の一環」
であったり、
「しつけ」
というものがあるはずなのに、虐待を防ぐという目的のために、教育の一環であったり、しつけがおろそかになり、
「何が正しくて何が悪いのか?」
ということが分からないという子供ができるということになるのだった。
それを考えると、
「過ぎたるは及ばざるがごとし」
ということになるのではないだろうか?
だから、足柄は、
「子供がほしい」
ということは考えていなかった。
だから、
「結婚」
ということも考えていない。
親が、高校生の頃に死んだのを機に、閉じこもってしまった。
美大には、合格し、勉強もしたが、勉強しているうちに、
「俺には合わないかな?」
ということで、中退してしまった。
ただ、成績は悪くもなく、先生からも、一応の評価を受けていた。
だから、退学を申し出た時、ゼミの先生としては、
「それはもったいないな」
とは言ったが、次の一言で、
「まぁ、君の性格からすれば、何かに縛られることは、あまりいい傾向だとは思わないので、自由な発想な下で、どこまでできるかというのを、私は一ファンとして。見て行きたいものだな」
というのであった。
それを聞いた足柄は、ニコット笑って、その時、初めて、
「誰かと心が通じ合った気がした」
と感じた。
さらに、
「心が通じ合うには、下手に言葉なんかいらないんだ」
ということであったのだが、それは、足柄が初めて感じたことであった。
その言葉を、表現としては聴いたことがあった。
確か、何かの本に書いてあったのだろうが、正直覚えていない。
足柄という男は、心に刺さる言葉があったりすれば、その瞬間は感じるものがあるのだが、次の瞬間には、別のことを考えていることが多い。
だから、
「どこかで聞いたことがあるような」
とは思うのだが、そこが、重要というわけではない、
それだけに、それがいつどこでだったのかということを、無理に思い出そうとはしないのだった。
それが、足柄という男が、
「俺は芸術家肌なんだ」
と思うところであり、
一つのことを、点で覚えることが苦手で、流れで覚えようとするから、重要な言葉を感じても、それが、いつどうして思い浮かんだのかということを忘れてしまうのであっただろう。
「俺は芸術家なので、俺の気持ちをわかるやつはいない」
と思っていた。
「親ですら分かっていなかったのだ」
と思うが、ただ、
「俺を芸術家にしようと思ったという感性はすごい」
と思ったのだ。
ただ、それも、ごく短い間だけだったようで、正直、
「名前を付けた時だけだったので、俺は自分の気まぐれでお前に名前を付けてしまったのかと思って後悔したこともあったな」
ということであった。
それを思うと、
「俺というのは、ただの偶然で生まれたわけではないんだろうな」
と思った。
「人は、誰も偶然などで生を受けるわけではない」
と言われる。
ただ、それなら、
「どうして、生まれてくる時に、親を選べないんだ?」
ということになり、
「生まれながらに人間は平等だ」
などと言われるが、
「そんなバカなことがあるわけはない」
ということで、それこそ、
「詭弁ではないか?」
と思えてならないだろう。
子供によっては、
作品名:小説の書かれる時(前編) 作家名:森本晃次