小説の書かれる時(前編)
「関白職になった秀次にすり寄って、今後の自分の立場をよくしようという輩もいたことから、秀吉が、秀次に、謀反の疑いがあり」
ということで捉えたのだった。
そもそも、このやり方は、その時にはじまったものではない。
謀反の罪を擦り付けるというのは、古代には、
「持統天皇」
が、自分の生んだ息子を皇位に就けたいということで、画策したこともあったくらいだ。
また、
「息子ができないので、他の人に職を譲れば、子供ができた」
というパターンは、戦国時代への導火線となった、
「応仁の乱」
の原因となった、
「日野富子と足利将軍第八代の、義政との間で起こった確執からだったではないか」
ただ、秀吉の場合は、結局、秀次を切腹させると、その怨霊を恐れてか、
「聚楽第」
などの、秀次がこの世に存在したということを抹殺するように仕向けたのだ。
しかも、秀次の血の綱かった人を皆殺しということも行っている。これは、
「頼朝と、清盛の因縁」
を考えると仕方のないことなのかも知れないが、そもそも、秀次を葬らなければ、こんなことにならなかったのだ。それだけ、歴史から葬り去るということは、実際に、たくさん起こっていることであろう。
mた、今度は、その豊臣政権から、秀吉が死んだことで、それまで、秀吉に従順だった。家康が、その野心をあらわにしてきた。
元々、野心があり、
「好機がない」
ということで、
「自分の高齢」
と、さらに、豊臣家の衰退を目の当たりにして、
「いよいよ、自分の出番だ」
ということになってきた。
そして、豊臣家内部の内紛に乗じて、いよいよ野心をむき出しにして、相手をその気にさせることで、戦に持って行き、最後はそれに勝利することで、最終的に、自分が、
「幕府を開く」
というところにこぎつけるのだ。
征夷大将軍に任じられると、幕府を開くことができるということで、いよいよ、徳川時代の到来だった。
しかし、問題は、秀吉の息子だった。
息子の秀頼がいる以上、まだまだ安心はできない。
秀頼の方が、格上で、しかも、圧倒的に若く、自分の息子と比較しても、まだまだ大名の行方を考えると安心できない。
それを考え、豊臣家の滅亡を画策することになり、結果、豊臣家を滅ぼして、
「徳川の独裁政権」
を築くことになる。
そこで、初めて、
「戦乱の世が終わった」
ということになり、徳川の天下となるわけだが、その時、徳川家が行ったのは、
「徹底的に、豊臣の遺構の破壊」
ということであった。
豊臣が存在していたことが残っていれば、庶民は、
「豊臣時代を思い出す」
ということになり、
「あの時代がよかった」
ということになると、せっかく、豊臣を滅ぼしたのが、無になってしまうというものであった。
それを考えると、
「政権が変わると、過去の政権の遺構を、完全に破壊する」
ということを行ったり、
「存在していた、歴史の事実であっても、自分たちの政権のためには、それらを、捻じ曲げなければいけない」
ということもあったりした。
だから、徳川の書き残した歴史書などには、改ざんがあったり、豊臣が残していたかも知れない歴史書を、
「まるでなかったかのように、抹殺」
してしまったものもあることだろう。
そこまでしないと、徳川の世が、正しくないなどという人が出てきて、そこで、
「軍事クーデター」
などが起こってしまうと、徳川政権の危機になるだろう、
さて、そんな徳川時代であったが、
「形あるものは必ず滅びる」
ということで、260年という長きに及んだが、それがうまく行っていた理由の一つに、
「鎖国制度」
というものがあったからだ。
海外との接触を断つ。
しかし、すべて断ってしまうと、貿易の利益がなくなるということで、長崎の出島だけを、貿易の許可を出していたのだ。
これも、
「諸大名に、利益をもたらせないため」
ということで重要だったのだ。
そして、鎖国の一番の目的は、
「キリスト教の布教の禁止」
にまつわるものだった。
「キリスト教は国を亡ぼす」
と言われていたが、それは本当のことだった、
正直、大航海時代においては、ヨーロッパの国は、植民地を獲得する手段として、
「まず、キリスト教を布教させる」
というところから始めて、そのあと、
「国が乱れる」
ということでの、
「内乱勃発に乗じて、軍を送り込み、その混乱を収めることで、植民地とする」
というやり方をしていたのだ。
つまり、
「キリスト教は、植民地政策の第一歩だった」
ということなのだ。
日本が、そのことを分かっていたのかどうかまでは、難しいところだが、信長は、比較的、緩和で、
「貿易や布教は許すが、政治への口出しは許さない」
ということであった。
これは、信長を脅かす、
「本願寺などの一向宗や、延暦寺などの勢力をけん制する」
という意味もあっただろう。
つまり、信長は、
「キリスト教を利用しよう」
と考えていたのだ。
比較的、
「自分の権威」
ということよりも、実を取ることの多い信長らしい。
きっと、自分の権威が、揺るぎないものだという自負があったのかも知れないし、あくまでも、
「戦国時代」
という戦乱の時代を生き抜くための、考えだったことだろう。
しかし、秀吉の場合は、すでに、天下を統一し。今度は、平和の中での、時代を築くということだったのだ。
そのためには、
「キリスト教は邪魔でしかない」
ということだったのだ。
それでも、最初は容認していたのだろうが、それは、ヨーロッパ諸国と緒貿易を考えておことだろう。
「キリスト教を禁止してしまうと、貿易もできない」
ということになってしまうかも知れないからだ。
だから、実際に、最初は、
「キリスト教禁止令」
を出しながら、貿易を続けたことで、
「禁止令」
というものが曖昧になっていったというのが事実だったのだ。
そんなことがあってから、
結局、豊臣家は、一代で潰れるということになった。
足利幕府は、15代まで将軍が続くことになるが、最盛期を迎えたのは、3代将軍までで、そこから先は、ほとんど、有名無実であった。
しかも、鎌倉幕府も、源氏は3代まで、
「北条氏の策略のため、3代で、ほろんでしまうことになった」
といえるだろう。
ただ、頼朝自身が、息子を可愛がる一心で、兄弟を滅ぼすことになるのだから、
「自業自得」
の面もないわけではなかったが、そんな頼朝を見て、北条氏も自分たちの安泰のために、結果として、源氏の滅亡を招いたのだ。
そんなのを家康は見ているので、
「徳川家が、ずっと続く世を作ろうとしていたのだろう」
それを思うと、
「豊臣家の存在を徹底的に抹殺する」
という考え方も無理もないことだろう。
裏を返せば、
「庶民の中には、比較的、豊臣家の政治はありがたがられていた」
といっても過言ではないだろう。
それを考えると。
「徳川政権から、取って代わった政権が、今度は徳川の時代を徹底的に否定する」
というのも当たり前のことではないだろうか。
特に、
作品名:小説の書かれる時(前編) 作家名:森本晃次