小説の書かれる時(前編)
当時の日本は、
「どんなに豪族が勢いがあっても、天皇家にはかなわない」
ということになるであろう。
天皇系というのは、
「万世一系」
であり、どんなに、他の勢力が強くても、その権威は、誰もがひれ伏すといってもいいであろう。
それを冠が合えると、ここでの、
「クーデター」
という言葉を使ってしまうと、
「皇族である中大兄皇子は、本当は、新興勢力だったのではないか?」
ということである。
そうなると、歴史が根本から変わってくるということになり、天皇が、日本で、
「万世一系」
として、君臨するのは、それ以降ということになる。
となると、それ以前の歴史として、
「巨大古墳の建設」
がその権威を示すためだということになるとすれば、
「理屈に合う」
ということがいえるのではないだろうか?
というのは、
「巨大遺跡」
というのは、まだその当時、絶対的な権力があるわけではなかった天皇家が、後世に権威を示すために、巨大遺跡を築くのだということになれば、それ以降、つまり、
「乙巳の変」
の時には、まだ、天皇の権威が確立された時代ではなかったということで、
「クーデター」
といってもいいのかも知れない。
というのも、クーデターによって、成立した政府は、蘇我氏が行っていた政策をまったく変えてしまった。
「外交としては、蘇我氏が、朝鮮半島に対しては、平等に外交をしていたのに対し、大化の改新では、百済一辺倒の外交に移行した」
ということになる、
これが、実は間違いで、
「新羅、高句麗の連合軍が、百済に攻めこんだ」
ということで、百済が日本に、助けを求めにきたということがあり、政府としては、兵を朝鮮に派兵したのはいいが、
「連合軍に大敗」
を喫し、結局、
「九州において、相手が攻めてくるかも知れないということで、防衛をしなければいけなくなったのだ」
ということであった。
そのために、何度も遷都するという状態となり、世の中が、かなり混乱したのだ。
「7,80年くらいの間に、10回近くも、遷都をしたというのだから、誰が考えても異常といえるのではないだろうか?」
また、蘇我氏は、
「仏教という外来の宗教を受け容れたが、大化の改新では、日本古来の宗教に固執し、仏教文化の発展を遅らせた」
ということが、近年では言われるようになった。
ただ、それが、いいことなのか悪いことなのかは、研究している人の意見である。
歴史において、よく時代が流れると、
「歴史が答えを出してくれる」
などということを言っている人がいたが、果たしてそうなのだろうか?
確かに、
「歴史を勉強していると、考え方は様々であることから、何が答えなのかということが果たして分かるものであろうか?」
といえるのではないだろうか?
とにかく、
「あのまま、蘇我氏の時代が続いていれば、もっと歴史が先に進んでいたかも知れない」
と考える学者が、今の時代は増えてきたということがいえるのであろう。
そして、次に言われている時代は、
「源平の盛衰」
というものを考えた時の子とである。
平家というのは、
「清盛一代で、その盛衰は決した」
といってもいいだろう。
平家が、天皇家の権威に執着したことで、自分たちが武士であることを忘れたかのように、
「貴族化してしまった」
と言われるが、それ以上に、平家がもたらした体勢というものが、本当に悪いものだったのかということである。
それは、その後に起こった、
「武士を中心とした時代」
としての、
「封建制度」
という時代に言えるのではないだろうか?
平家は、その権威の下になるものとして権力の元になるものとして、
「海外貿易」
に見出していた。
特に、平家は、元々が、海軍力によって、勢力を伸ばしてきたのだ。
「福原」
という、国際港を作ったのも、平家の功績であり、そこで、宋との、海外貿易で、富みを得ていたのだ。
しかし、源氏が、
「武家政治」
ということで、
「島流し」
となった伊豆を拠点に、坂東武者との間に力をつけて、
「朝廷とは、一線を画し、決して、妥協しない」
ということから、権力を増してきたのが、鎌倉幕府だったのだ。
その基本方針として、
「ご恩と奉公」
という考え方である。
「領主が、御家人たちの領地を保証する」
という、ご恩に対して、
「領主が戦をしたり、問題が起こった時には、御家人が領主の元に馳せ参じる」
という、いわゆる、
「いざ鎌倉」
という言葉にあるような状態を、奉公というのだ。
この上下関係を、
「封建制度」
と呼び、日本に限らず、中世と言われる時代の基本的な考え方となったのだった。
しかし、その封建制度が確立するまでには、かなりの紆余曲折があった。
そもそも、坂東武者が、源氏を祀り上げて、幕府をいうものを作ったはいいが、その御家人の間で、権力争いが勃発した、
それが、
「初代将軍」
である、源頼朝が死んだことで勃発した、
「北条氏とその他の御家人」
との対立であった。
「源氏の跡取りである将軍」
というものを巻き込んでの、権力争いということになったので、将軍といえども、
「対抗勢力に加担した」
ということになると、平気で島流しになったりした。
さらには、暗殺されたりして、源氏の血筋は、
「将軍三代で、途絶えた」
といってもいいだろう、
奇しくも、蘇我氏の三代と似ているところが皮肉であるが、あくまでも、
「立場としては、逆だ」
ということになるのだろう。
それを考えると、
「武家政治が確立するまでには、かなりの時間がかかる」
ということであった
鎌倉幕府は、一時五一定の安泰の時代があったが、中国に成立した元による、侵攻によって、その体制に陰りが見えた。
何といっても、封建制度では、
「領主のために戦って、論功行賞で、褒美としての、土地を貰う」
というのが、当然だったのだが、
「元寇の侵攻を食い止めた」
といっても、相手に侵攻しての領土が増えたわけではないので、何とか勝利したといっても、
「褒美として与える土地がない」
というのが問題だった。
命を懸けて戦い、負けたのであれば話は別だが、借金してまで、戦に参加したのに、褒美がないとなると、踏んだり蹴ったりということになる。
まさに、リアルに生活ができない。あるいは、
「部下を養うことができない」
ということで、幕府に対する不満から、倒幕となったのだ。
しかし、その後に成立した足利幕府も、最初は、最盛期を迎えたところまではよかったが、今度は各御家人の力が津yすぎて、そちらを制御しきれずに、結局、
「応仁の乱」
などの内乱がいくつも勃発し、それによって、下克上の機運が高まり、
「戦国時代」
へと突き進んでいくのであった。
この時代は、とにかく、
「群雄割拠の武将たちが、繰り広げる」
といわれる、
「国盗り物語」
という時代だったのだ。
城というものが発展し、小競合いであったり、大きな戦を重ねることで、体制が次第に見えてきて、
「織豊時代」
というものを経ての、
「徳川幕府」
の成立により、やっと、
作品名:小説の書かれる時(前編) 作家名:森本晃次