小説の書かれる時(前編)
がまったく変われば、その時代背景も変わってくるので、
「歴史が変わる」
というのも当たり前のことである。
だから、時代を、
「区分分け」
することもできるのであり、例えば、
「古代、中世、近世」
という分け方もできるだろう、
日本においても、分けることができる。
例えば、古代といえば、原始時代から、クニというものができて、そこで、小競り合いっが起こってくる中で、朝鮮半島の影響を受けてくることで、王の力を占めそうとするための、
「古墳」
と呼ばれる、国王の陵墓というものの巨大なものが作られるようになる。
まるで、聖書の中に出てきた、
「バベルの塔」
の話のようではないか。
「地域がどこであっても、人間の考えることは同じだ」
ということなのか、それとも、
「バベルの塔」
の話において、最後に描かれた内容として、
「神様が人間が自分たちを冒涜したことに起こって、人類の言葉が通じないようにして、そのため、人類が世界各国に散っていった」
というのがあったが、その人たちの一部が、朝鮮から日本に渡ってきたことで、
「巨大古墳を築く」
という状態になっていったとは、考えられないだろうか。
信憑性としては、十分にあるのではないかと思われるのだが、果たしてどうであろうか?
要するに、
「自分の権力を示すことで、国家の統一を図る」
ということを中心にしているといってもいいだろう。
そういう意味で、
「バベルの塔」
の話のラストは興味深い。
全世界で、似たような巨大遺跡が作られているのを考えれば、
例えば、
「エジプトのピラミッド」
などの存在を知っていて、それをうまく神話化することで、聖書を作ったと考えれば、
「ピラミッドも、元々は、バビロニアから広がった」
ということがいえるのではないか。
そして、それ以後の日本などの未来において、同じようなものが作られたのは、ただの偶然なのか、それとも、
「バベルの塔」
の記憶から、巨大なものを作ろうということなのかということである。
そうなると、今度は、
「それら巨大遺跡は、少なくとも、神に近づこうなどという、大それたことではなく、神に敬意を表するため」
という考え方であるとすれば、
「バベルの塔」
と、
「巨大遺跡」
との間で、繋がりがあると考えられるだろう。
だから、決して、
「バベルの塔」
以降には、
「天にも届く」
というような、巨大な遺跡は存在しない。
だが、今の時代においては、
「摩天楼」
などという高層ビル群が、聳えているが、それはあくまでも、
「神に近づく」
あるいは、
「王の権威」
を示そうとするものではないといえるだろう。
ただ、
「自国の権威を世界に示そう」
という意識はあるようだが、それが、果たして神の怒りに触れないとも限らない。
そう考えると、摩天楼を神が許すのであれば、
「バベルの塔」
の話は、あくまでも、
「伝説である」
ということになり、
「神様の存在」
という信憑性はないことになる。
ただ、高層ビルを壊す事件が過去にあったが、あれも、宗教が絡んでいることだったので、ひょっとすると、
「バベルの塔」
の再来ということを言いだすとすれば、それが、信憑性のあることか、ただの言い訳なのかは、それこそ、人それぞれの考え方によることだろう。
日本で、古代遺跡の時代を通りこすと、今度は、そのタイミングということか、
「仏教」
というものが伝来してくる。
そこで、元々あった、日本古来の宗教と衝突したということであったが、ここで一つ、疑問が起こってくる。
「巨大遺跡」
を、
「バベルの塔」
の話が入っている、聖書だと考えると、そのバックには、キリスト教があることになる、
仏教と日本古来の宗教とが、対立したのであれば、
「キリスト教」
とであれば、さらに大きな衝突になったのではないか?
と考えられるのだ。
確かに、当時の日本には、文字というものがなかったので、書物としては残っていない。外国の書物にもないということは、
「西洋のキリスト教のことなど、歴史書に書き残すなど、汚らわしい」
という思いだったのか、それとも、
「本当に、キリスト教なるものは、その時には渡来していなかった」
ということであろうか。
まさか、
「バベルの塔」
という話だけ伝わって、それが宗教色があるわけではない、ただの、物語としての、伝来だったのか?
ということである。
それを考えると、考え方は次第に膨らんでいき、可能性というものは、たくさんあるということになるのであろう。
それが、
「未来」
というものであり、
「未来には希望が待っている」
という考えが、どれほどお花畑的な発想になるのかということは、分からないというものであろう。
それを考えると、
「歴史というものが、節目節目にあって、それが、本当に、いい方に進んでいる」
とは言えないのではないだろうか?
特に近世などはそうであろうが、古代から中世もそうだといえる。
歴史のターニングポイントの中には、その事件が起こったことで、
「歴史が、100年さかのぼった」
というようなことを言われたりしている。
それが、クーデターであったりすることが、
「歴史を勉強していると分かってくる」
というものであった。
いくつかあるのだが、まず、一つとして、
「乙巳の変」
というものがそれではないだろうか?
これは、いわゆる、
「大化の改新」
というものに繋がるもので、近年まで言われていたこととして、
「三代に渡って、豪族の中で、頭一つ抜け出した蘇我氏が、天皇の権威を利用して、皇族を転覆させる」
という計画を持っていることから、
「中大兄皇子、中臣鎌足に滅ぼされた」
ということが正しいと言われるようになっていたのだ。
これは、それこそ、
「天皇が神」
であり、蘇我氏が、
「塔を作った、バビロニアの王」
という立ち位置で考えれば、
「蘇我氏は、神をも恐れぬ悪である」
ということになるだろう。
その当時、
「巨大遺跡」
から繋がる考えがあったとすれば、神をも恐れない豪族は、
「滅ぼされて当たり前だ」
ということになるだろう。
だから、長い間歴史の真実ということで、
「天皇家の転覆を狙った蘇我氏に対し、天誅を下した」
ということになっている。
しかし、言われていることとしては、
「クーデター」
という言い方をしている。
これは、
「すでにある権力者を、新興勢力が潰した」
ということで、戦国時代の、
「配下のものが、上もものを討ち取って、成り上がる」
という
「下克上」
に近いものだといえるのではないだろうか?
それを考えると、
「そもそも、勢力を持っていた蘇我氏に対して、新興勢力である、中大兄皇子と、中臣鎌足が謀反を起こした」
ということになるだろう。
そうなると、どうなるのか?
というのは、
「中臣鎌足は確かに、新興勢力だったかも知れないが、中大兄皇子というのは、その名の通りの、皇子である」
つまりは、
「中大兄皇子というのは、すでに皇族」
ということになる、
作品名:小説の書かれる時(前編) 作家名:森本晃次