小説の書かれる時(前編)
という時代でもあった。
しかも、
「馬車馬のようになって働くことが美徳だった」
という時代でもある。
「24時間戦えますか?」
というコマーシャルによる閃電文句が流行ったくらいだ。
そのコマーシャルというのが、スタミナドリンクであり。
「そんなものを呑んでまで、寝ずに働く」
という今でいえば、
「ブラック企業」
の典型でもあっただろう。
ただ、安行手当は普通に出るので、大きな社会問題ともならなかった。
「企業戦士」
などと言われて、本当に美徳だった時代である。
ただ、
「過労死」
などという問題もあってか、裁判問題などになると、企業もさすがに経営が危なくなることもあっただろう。
ただ、しょせん、
「バブル経済」
というくらいで、そんな経済は、いわゆる、
「実態がない」
というものだ。
その、化けの皮が剥げると、まずは、それまで神話のように言われていたはずの、
「銀行は絶対に潰れない」
というものが、あっという間に破綻した。
それにより、社会は、やっとバブル経済の終わりを知り、いよいよ、自分たちがやっていたことが、いかに危険なことだったのかということを思い知ったのだろう。
後から考えれば、
「それは、当たり前のことではないか」
と思うことであった。
それなのに、
「どうして、こんな当たり前のことを誰も気付かなかったんだろうか?」
と考えてしまう。
経済学者の中には、感じていた人もいたかも知れないが、
「それを一介の学者でしかない自分が公然と口にして、果たして今の、常識というものを覆ることができるのか?」
ということである。
下手をすると、
「オオカミ少年」
のように、
「あいつは、ほらを兵器で吹きまくっている」
と言われ、下手をすれば、
「気ちがい扱いをされてしまうかも知れない」
ということもあったのだ。
そうなれば、本末転倒。
「どうせ、誰も信じてくれなくて、社会を動かすことができなければ、損をするのは、俺だけではないか」
ということである。
バブルがはじけてしまえば、誰もがその勢いに呑まれてしまう。
だとすると、
「俺が必要以上に何かを言っても、結果、どうすることもできない」
ということになるであろう。
ということであった。
結果、
「バブルがはじけることを、誰も止めることができないのであれば、自分が少しでも被害を少なくできるか?」
という自己保身に走るしかないだろう。
だか、この大きな経済の流れが一気に崩れてしまうと、どうなるか?
そんなことを考えても、分かるはずはない。
そうなると、今度は、
「余計なことを考えると、結局、自分がきついだけだ」
ということになるのだろう。
それを考えると、
「やはり、神様がいないと、俺はノアのようにはなれないんだな」
と思うのだった。
あれは、人間をつくった神が、
「自分の思っているような世界になっていない」
ということで、世の中を浄化するという意味で、
「世の中を一度滅ぼす」
ということで、リセットした後の最初の人間として選んだのがノアだったのだ。
まわりの人間から、いかにバカにされようが、いずれ、神のいうように、大洪水が起こると、それまでバカにしていた人は、あっという間に水の中に消えてしまい、生き残れるわけはなかったのだ。
何しろ、自然現象ではなく、
「神が起こした大洪水」
なのだからである。
それが、いわゆる、聖書の中にあった、
「ノアの箱舟」
という話だったのだ。
バブルがはじけるということは、その、
「ノアの箱舟」
の中に出てくる、
「大洪水」
のことであった。
あっという間に飲まれてしまい、すべての生物は死滅するという大洪水である、
ただ、すべての人間が死滅するというのは大げさで、庵とかここから生き残りをかけてどうすればいいかということが、
「遅ればせながらに考えられる」
ということであった。
そんな状態で、一つ考えられることとしては、
「正義と悪を逆転させる発想」
というものであった。
今まで、
「正しい」
と言われていたことは、
「間違い」
でって、
「間違い」
と言われていたことが、
「正義だ」
という考えだ、
ただ、後者に関しては、吟味の必要があるが、前者は、ほぼ間違いないといってもいい、
だから、考え方を180度変える必要があった。
まずは、事業の縮小。
そうなると、人員の削減、いわゆる、
「リストラ」
というものだ。
そうなると考えられるのが、
「経費節減」
というものであった。
人権時も経費に当たるわけであり、
「収益が得られえないのであれば、経費を抑えるしかない」
というのが当たり前のことで、バブルの時期には、なかった発想である、
なぜなら、
「事業を拡大すれば、その分、儲かる」
ということだったからだ。
事業縮小どころか、戦える戦士と、それだけたくさん養ったり、育てたりするか?
ということであった。
ただ、そうなると、考え方が、
「日本の今までの企業のありかたが、そもそも間違っているのではないか?」
という考えにいたるのである。
それまでの日本企業の考え方の一番というのは、まず、
「年功序列」
というものだった。
実力に関係なく、どれだけの年数、その会社にいるかということで、ある程度の年齢になると、自動に近い形で昇格していく。だから、年齢を聞いて、
「40ちょっとくらいです」
と答えたとすると、もちろん、会社の規模にもよるのだろうが、
「係長か、課長クラスですね」
ということが容易に想像つくということである。
だから、もう一つの常識も成り立つわけで、それが、
「終身雇用」
という考え方だ。
最初に企業に入れば、
「定年まで勤め上げる」
というのが当たり前のことであり、それだけに、最初の研修だけでなく、いくつになっても、
「社員教育」
というおのを行うところが多かったのだ。
それはいいことではないだろうか。
ただ、終身雇用や、年功序列という考えが、
「バブル崩壊」
とともに、崩れていくということは、誰の目にも明らかなことだった。
要するに、
「アメリカ企業などのように、社員は、実力主義」
ということである。
だから、企業一つにしがみつくわけではなく、
「優秀な人材が、企業を選んだり、企業の中で、優秀な人材を他に求めて、引き抜きと行う」
ということが当たり前のように起こっている。
それまでの日本には考えられないことだ。
何といっても、これは、昔の封建制度から尾を引いているのかも知れない。
前述の、
「ご恩と奉公」
つまり、
「会社から、雇ってもらって、安定して金が入る状態が、ご恩であり、そのために、会社に対しての企業戦士として、ずっと働いていくというのが、奉公ということになるのである」
ということだ。
そもそも、一つの大名から召し抱えられた参謀であったり、家老などが、実力主義ということで、他の大名のところに簡単にいくだろうか?
いやいやそれはありえない。
なぜなら、
「その大名の秘密を握っている」
作品名:小説の書かれる時(前編) 作家名:森本晃次