小説の書かれる時(前編)
と思っていた。
しかし、工芸品が、次第に自分で思っているように作れるようになると、描いている絵も、次第にうまくなっていっているように思えてきたのだ。
「俺って、そんなにうまかったっけ?」
と感じるのだが、
「絵というものは、描けば描くほどうまくなる」
と言われたのを思い出した。
ただ、それも、ある程度の一線までであって、
「それ以上は、ある程度の努力を必要とするし、しかし、最後にものをいうのは、才能だ」
ということであったのも、思い出したのだ。
工芸作家としては、
「やればやるほど、うまくなる」
というものなのかどうかは、自分でも分からない。
ただ、こっちも、
「実際には、自分で考えているよりも、まわりの方が、案外と認めてくれていたりもするものだ」
ということを感じるのだった。
「絵というものが、うまくなってきたのだから、工芸作家としても、それなりに上達している」
のではないかと思い、コンクールに出典してもみたが、実際に、評価を受けることはなかった。
コンクールなどでは、入賞しない限りは、一切何もないというシビアなものなのだ。
せめて、
「自分が、落選したとしても、どのあたりで落選したのか?」
ということも分からない。
つまり、
「何人中、何番目だったのか?」
ということも分からなければ、
「第1次審査で落選したのか?」
それとも、
「最終選考までは行ったのか?」なども分からない。
もっとも、賞によっては、最終示唆に残った人、そして、そこからの審査については書いてくれているところもあったりするが、ほとんどのところは、
「審査が、何次まであるのか?」
ということすら、一切公表していないところもある。
発表の際は、申込件数が分かるくらいで、後は何も分からない。
何と言っても、募集要項の中に、
「審査に関しての問い合わせには、一切応じられません」
というところがほとんどである。
もし、それを言ってきても、
「最初から明記しています」
と言われれば、それまでであった。
それで、蓋を開けてみると、受賞者が芸能人であったり、極端に若い人などというような、
「話題になりそうな人が入選している」
などということになると、
「出来レースなんじゃないか?」
と疑いたくなっても、無理もないことだろう。
本当であれば、
「自分がどれくらいの実力なのかを知りたいと思っている人が多いのだろうが、却って、分からなくなる」
というのがオチというものであり、
「もう、応募なんかしないぞ」
と思う人も少なくはないだろう。
誰でも応募できるのであれば、もっとたくさんの人が応募していてもいいと思うのだろうが、中には、それらの賞を研究している人がいて、
「あれは、出来レースだ」
ということを言って、広まったのも、あるのかも知れない。
というのも、
「皆、その疑いを持っている」
ということだからだろう。
「どうせ、応募したって、受かるわけないのに、自分がどこまでのレベルか分からない状態で、もし何かの間違いで入賞したとしても、相手の何かの宣伝に使われるだけかも知れない」
と思うと、応募する気も失せてくるというものである。
特に最近の有名な賞というと、
「話題になっている最近出てきたジャンル」
であったり、見るからに、注目を浴びるだけのものだ。
というものでもなければ、ありえなかったりする。
そう言えば、賞ではないが、以前、
「小説にしませんか?」
という自費出版社系の応募というのがあったらしいが、その時、ランクがあり、
「出版社がすべての費用を出す」
という企画出版だったり、
「お互いに金を出し合う」
という協力出版であったりを作品を読んで判断するというものがあったらしいが、相手は、それを
「絶対に協力出版に持ち込んで、うまく言って、金を出させる」
という詐欺商法があったという。
その時に、相手の営業でキレたのか、
「言ってはいけないことを言った」
ということで有名になったことがあったらしい。
その言葉が何かというと。
「あなたがいうような、企画出版というのはまず、ありません」
というのだ。
「それはどういうことですか?」
と聞くと、
「企画出版をするというのは、我々が、確実に売れると踏んだものだけなのです、それはどんなにいい作品だと思ったとしても、新人で無名の作家の本などは、危険だとしか思わないんです。だから、著名な人しかないんです」
という話をする。
「じゃあ、どういう人なんですか?」
と聞くと、
「それは、芸能人か、犯罪者しかありません」
というのだった。
その人は、相手の営業の言葉に、あっけにとられ、何も言い返せなかったという。怒りがこみあげてくるのは当たり前のことなのだが、それだけではなかったというのだ。
そもそも、だったら、なぜ、企画出版というものを、あたかも、期待させるように書くのか?
ありえないというものを書くということは、相手に期待させることになるので、商法上の
「表記違反」
というようなものではないのか?
と考えてしまう。
それを考えると、
「出版社による詐欺行為」
というものを疑って、その人は、次第に身体から力が抜けていったという。
しかも、完全に相手はキレていた。話をしているのは、あくまでも、高圧的な態度だったのだ。
何と言っても、
「あなたの作品を協力出版として推薦したのは、自分であり、自分が推薦しなければ、出版会議に名前すら上がることなく、誰からも相手にされない作品なんだ」
と平気で言った。
そして、その会議に上げるための推薦も、
「今回が最後だ」
というのだ、
つまり、
「今出版を考えないと、もう、二度と本を出すなどということはないのだ」
と言ったらしい。
それで、こちらもキレて、
「わかりました。じゃあ、これからは、他の出版社に送ります」
といって、電話を切り、完全に、
「国交断絶状態」
になったのだという。
確かに当時、似たような出版社が何社もあった。
その出版社は、その中でも、比較的最初からあり、出版社としても、小さそうだが、よくいろいろなところで広告を出していたのだった。
だが、実際には、
「そんな広告に騙される人が、こんなにもたくさんいるのか?」
と思うほどに、応募が多いという。
それよりも、
「作家になりたい」
であったり、
「本を出したい」
と思う人が、
「ここまでたくさんいるのだろうか?」
ということに驚かされた。
その直接的な原因として考えられるのが、
「バブルの崩壊」
だというのだ。
「バブルがはじけたことで、それまで、毎日のように残業していたのが、急になくなった」
というのだ。
というのも、
「バブル経済」
というのは、
「事業を拡大すればするほど、儲かる時代だったので、人材はできるだけほしいと思っていたのだ」
もっといえば、
「人材には限りがあるので、そうなると、現存の社員にムリをさせてでも、事業をやらせれば、それだけ儲かるのだから、儲かった分、社員に残業手当として支給しても、痛くも痒くもなかった」
作品名:小説の書かれる時(前編) 作家名:森本晃次