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小説の書かれる時(前編)

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「平和な国で平和にすくすく育つ子供もいれば、戦争をやっている国の子供として生まれ、生まれてすぐに、栄養失調で死んでしまう」
 ということだって、普通にあるのだ。
 大日本帝国の時代、大東亜戦争が、青年期であったりすれば、下手をすれば、
「カミカゼ」
 や、
「人間魚雷」
 の乗組員となって、片道の燃料だけで、敵艦に突っ込むということになるだろう。
 成功すればまだいいのかも知れないが、目的を達成できなくても、帰還が不可能なのだから、それこそ、
「犬死」
 ということになってしまう。
 それを思えば、
「運命のいたずらとよくいうが、本当に悪戯では済まされない」
 といってもいいのではないだろうか?
 そんなことを考えると、
「生まれながらに平等だ」
 というのはあり得ない。
 もし、戦争のない土地に生まれたとしても、それは同じことだ。
 平和なところにだって、
「貧富の差」
 というものが存在していたり、昔の時代であれば、
「奴隷制度」
 などというものが、普通に社会の組織として、存在していたのではないか。
 奴隷と言われていた人が、
「理不尽だ」
 と思っていたのかどうかというもの分からないところで、
「これが当たり前なんだ」
 と考えていたとしても、それも無理もないことではないだろうか?
 それだけ、
「奴隷として扱われていると。余計なことを考えないようにしよう」
 と思うことが、彼らにとって、その時は、
「一番幸せなことだったのではないか?」
 と思えるのだった。
 つまりは、
「何も考えないこと」
 というのが、彼らにとっては、一番精神的に苦しまずに済むことだったのかも知れない。
「理不尽だ」
 と考えると、
「神も仏もないものか」
 という発想になるのだが、そこに宗教が入り込んでくると、
「この世で報われなかった人たちは、あの世に行った時、あの世では報われる」
 という宗教の教えというものが、生きてくるのだ。
 しかし、宗教というものは、ある意味都合よくあっている。
 昔から信じられているものはまだいいが、
「今の時代の新興宗教」
 というものは、かなり理不尽なものが多い。
 ただ、それは、あくまでも、
「今のこの世」
 というものに照らし合わせてということなので、
 生まれながらに、平等などありえないのだから、平均から下であったりする人は、どうしても、宗教に嵌ってしまう。
「今の苦しみから、少しでも助かりたい」
 という思いがあるからなのか、
「生まれながらに、平等だ」
 という言葉を、真剣に信じるからなのかも知れないが、それは、昔の宗教とは考え方が違っているもので、
「新興宗教」
 という、怪しげで、
「都合のいいことしか言わない」
 というものは、どうしても、蔓延ってしまうのであろう。
 孤独な足柄は、学校では、歴史が好きだった。
 孤独な感覚に、歴史は、楽しかった。学校では、
「年号を覚えるのに、語呂合わせ」
 のようなものがあるせいで、
「歴史というのは、暗記物だ」
 ということを頭に刷り込まれてしまったことで、
「歴史が嫌いだ」
 と思っていた時代が、恨めしかった。
 しかも、そんな感覚にさせたのは、まわりのことで、友達でもない連中が、ウワサのようにしていた、
「歴史は暗記物」
 という言葉を真に受けてしまったという自分が情けないのだが、
「それ以上に、人に影響を与える無責任な言葉」
 というのが、嫌だということになるのだろう。
 それを考えると、
「俺って、意外と人の影響を受けてしまうんだ」
 と考えた時、前に考えた、
「人間は生まれながらに平等ではない」
 ということを思い出したのだった。
 それは、
「生まれた時の環境だけではなく、何よりも、自分の親から受け継ぐ遺伝」
 というものが、一番大きいのかも知れない。
 それを思うとやはり、
「生まれる時に、親を選べない」
 ということに、さらに繋がっていくということになるのであろう。
 それを考えると、
「歴史というものは、あくまでも、自分が感じたことによるもので、しかも、それが、自分の人生に大きな影響を与える学問だ」
 と思うと、
「簡単には、無視できない」
 と考えるようになったのだ。
 人生において、
「歴史というものが、点ではなく、線で繋がるものだ」
 という当たり前のことに気が付くと、
「歴史は決して暗記物の学問ではあない」
 ということになるのだ。
 今、学校では、
「プログラミング」
 というものを教えているという。
 特に、子供の習い事でいえば、
「かなりトップの方にある」
 と聞いたことがある。
「プログラミング」
 というと、普通であれば、
「アルファベットが並んだもので、それを機械語に翻訳させて動かす」
 というものを想像するだろうが、
「学問としてのプログラミング」
 というのは、
「モノの考え方を中心として、その流れを、点から線として考えるものだ」
 ということを聞いたことがあった。
 その人は、
「個人的意見だ」
 といっていたが、果たしてそうだろうか。
 個人的意見であっても、複数の人間が支持すれば、それは、大衆意見に匹敵するものになるといっても過言ではにあだろう。
 それを考えると、プログラミングと歴史とでは、まったく違う学問のように思うが、
「点と線」
 という考え方をするならば、
「紙一重の考え方ではないか?」
 と思うのだった。

                 詐欺と芸術家

 結局、芸術家を目指すようになった足柄は、最初こそ、
「親の敷いたレールという、一番嫌なものに乗っかることになった自分が嫌で仕方がなかった」
 のだが、
「芸術というものが、個性であり、さらに、孤独というものから成り立っているのではないか?」
 と考えるようになって、芸術家を目指している自分が、誇らしく感じれら、
「嫌に対して緒、コンプレックスなど、どうでもいい」
 と考えるようになったのだった。
 自分が芸術を目指している中で、
「芸術家の伝記」
 というのを読むようになった。
 中には、壮絶な人生を歩んでいる人もいて、
「だからこそ、芸術家になれば、伝記のようなものが書かれることになるのだろう」
 と思った。
 これは芸術家に限らず、著名人や有名人は皆そうで、
「そういう人生を歩まないと、有名にはなれないのか?」
 とも考えた。
 しかし、人それぞれに、個性があるように人生もある。
 どんなに穏やかで平凡な人生であっても、それなりに、苦労のようなものがあるのではないだろうか?
 それを思うと、
「どんな人にでも、伝記にはならないかも知れないが、1冊の本になるくらいのエピソードがある」
 と考えると、
「別に俺が、自分の目指す前の世界に、卑屈になる必要なんかないんだ」
 と考えるようになった。
 それから、少しの間、日記をつけるようになった。
 ただ、その日あったことを書き綴るというだけのことなのに、自分の中で、
「文章がうまくなっている」
 と思えてきたのだ。
 自分は、
「彫刻などの工芸作家を目指している」
 ということであるが、
「絵というものに対しては、なかなかうまく描けない」