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満月と血液のパラレルワールド

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 ドラキュラの話というと、実際の話や、その派生形の特撮やアニメの話などいろいろあり、その研究もなされているのかも知れない。
 もちろん、科学者として、どこまで信じていいのか難しいところだが、竹中は、それなりに信じていたのだ。
 だから、大学で血液製剤の研究をしながら、ドラキュラのような、悪魔と化した人間というものの存在も、心のどこかでありではないかと思っていたに違いない。
 そんなことを考えていると、竹中博士は、
「血液の中にこそ、永遠の命のようなものが、潜んでいるのではないか?」
 と考えていた。
 だから、
「吸血鬼ドラキュラは、血を吸うと、吸われた人間も吸血鬼になり、次第に、吸血鬼の大国を築いていくようになる」
 ということではないかと考えるのえあった。
 つまり、ドラキュラが血を吸うのは、基本、女性ではないかと竹中博士は考えていた。
 女性というと、月経というものがある。その時は、身体の中から血液が出ていくことになるのだが、本来は、それは、
「卵子との関係」
 ということであるが、確かにそうなのだろう。
 しかし、それが、月との関係による周期ということを考えると、
「その時、女性は貧血状態になるはずなのに、ぶっ倒れるようなことはないということから、本来、女性というのは、皆、吸血鬼として生まれてきていて、男の精気を吸い取ることで、生き残ろうと考えるものえはないか?」
 と考えた。
 だから、その時、ドラキュラのように、男の精気を吸い取った後、男が死なないように、男にドラキュラの精気を与えることで、男も、ドラキュラ化してしまうのではないだろうか?
 そんなことを考えると、その発想が、竹中の中で、
「不老不死というのは、このドラキュラの発想である、血液の中にこそ、正体が含まれている」
 と考えるようになったのだ。

                 不老不死の考え方

 そもそも、人間の血液というのは、どういうものか?
「血液が生命の源だ」
 と考えれば、理解できないこともない発想が結構出てくる。
 特に、伝染病などというものの研究は、実際に731部隊で行われていた。
 ペスト菌の培養であったり、結核菌などというものなど、
「不治の病」
 と言われるものも、血液に関係があると思われた。
 彼は、秘密結社としての。
「731部隊」
 というものの中でも、さらにその奥深い研究を行っていたので、その研究を、行っているということを知っている人も、ごく一部だったということだ。
 というのも、彼の研究は、そもそもの、731部隊の存在意義である、
「戦争を勝利に導くための、化学兵器の開発」
 ということと、少し違ったところがあったのだ。
 その一つが、彼が考案した、
「不老不死の考え方」
 であった。
 これは、極秘裏にした理由は、もちろん、
「戦争を勝利に導くためではない」
 ということで、当局から、責められるということが分かっていたからだった。
 それともう一つは、
「この研究が、医学界において、ショッキングな開発である」
 ということである。
 確かに、
「不老不死」
 ということができれば、画期的な発明であり、医学界に革命をもたらすことになるだろうが、そうなると、別のさまざまな問題が出てくる。
 一つは、
「医者や薬が困る」
 ということだ。
 今まで、寿命で死んでいた人が死ななくなってしまうと、その分、
「医者や薬がいらなくなるのではないか?」
 ということが懸念されたからだ。
 しかし冷静に考えれば、それはない。
 というのは、
「死なない」
 というだけで、病気にはなるわけなので、医者がいらなくなるということは、その考え方が少しおかしいのではないか?
 逆に、
「不老不死」
 というのは、
「死なない」
 というだけで、本当にいいことなのか?
 ということが問題になるのだった。
 この、不老不死という考え方は、昔の中国の考え方などに見られるところから、端を発しているのではないかと考えられる。
 唐の時代の物語の中に、
「西遊記」
 というものがあり、結構日本でも人気のお話で、何度も、ドラマになったり映画になったりしたあのお話である。
 乱れた唐の時代において、殺し合いや疫病などが目立つようになったことで、玄奘三蔵というお坊さんは、天竺にある、
「ありがたいお教を貰いに、旅に出る」
 という話で、その時のおともに、サルの化身である、
「孫悟空」
 カッパの化身である、
「沙悟浄」
 豚の化身である、
「猪八戒」
 の弟子を連れて、途中、妖怪変化に襲われるのを、弟子に救われながらの旅であった。
 その際、出てくる、
「妖怪変化」
 の中には、迷信なのか、本当のことなのか、
「高貴な坊主の肉を食らうと、不老不死の力を得ることができる」
 ということで、妖怪は、執拗に、玄奘三蔵を食おうとする。
 この発想が、
「不老不死」
 は、素晴らしいことであり、妖怪にとっての、
「桃源郷」
 のようなものだという発想が生まれるのではないだろうか?
 実際に、不老不死というと、それが、
「本当にいいことなのかどうか?」
 というのは、難しい解釈である。
 何といっても、
「西遊記」
 の話で、
「不老不死」
 というものを欲しがっているのは、道行く妖怪たちであり、人間が欲しがっているものではないということだ。
 そもそも、妖怪たちは、すでに、何千年、何万年と生きてきて、それでも、不老不死を求めるというのだから、人間の発想からすればありえないことだ。
 しかも、妖怪に仲間がいれば、不老不死を独り占めしようと、醜い争いをすることで、
「同士討ち」
 というものになってしまうこともあるだろう。
 それほど、彼らにとっての不老不死は、夢のようなものだといってもいいのであろう。
 だが、人間にとってはどうなのであろう。
 妖怪にも仲間がいるように、人間には、もっと絆が強い仲間が必要だ。
 その仲間が肉親であれば、もっと、その絆は強い。それは、
「血の系譜」
 というところからも言えるのではないだろうか?
 特に、親から子、そして、子孫にいたるまで、
「遺伝子」
 と呼ばれる。人間の身体も中で受け継がれていくのだ。
 それが血液というものであることは、すでに分かっていることであった。
 それに、人間というのは、
「妖怪」
 というものに比べて、
「弱いものだ」
 ということになっている。
 妖怪や、化け物というと、その定義は、
「人間よりも強いもの」
 といえるだろう。
 あくまでも、人間はそれでも、彼らよりも高等動物で、それは、どうしてそう考えるのかと言われると、その発想は難しい。
 特に
「西遊記などに出てくる妖怪たちは、しっかりとした人間のような頭の機能を持っていて、思考能力もある。さらには、人間にはない超常現象を引き起こす能力を持っている」
 といってもいいだろう。
 そんな妖怪は、人間よりも長い気をしているにも関わらず、決して普段は人間の前に現れない。
 何を恐れているのか分からないが、そんな妖怪が、
「なぜ、人間に劣る」
 というのか、
 妖怪を主題にした話の中で、