満月と血液のパラレルワールド
という問題が勃発した時に、起こった問題だったではないか。
あの時、
「世界は、核戦争が目の前に来ていることに恐怖を感じ、いよいよ、核の抑止というものが、薄っぺらいものである」
ということに気付かされたのだった。
核戦争にはならなかったが、それからも、
「核開発競争」
というのがあったのも事実で、今でも、北朝鮮などが、開発に躍起になり、それを外交手段で使うという時代に突入していたのであった。
そんな、核開発競争が、
「抑止力になるだろう」
ということは、当時の政治家は、それが正しいということを、皆信じていたのだろう。
しかも、核兵器を、
「大陸弾道弾」
に、
「核弾頭」
として積み込むことは分かっていて、地下サイロが開いて、そこから発射するということも、織り込み済みであった。
だから、従来のように、楽劇気が標的まで行って、核弾頭を投下させるというやり方は、難しいだろう。
何しろ、
「ヒロシマ型原爆の数百倍」
と言われるような爆弾が投下されるのだから、まず、爆撃機が、無事では済まない。
護衛の戦闘機でも、逃げ切れるかどうかも分からない状態で、爆撃機による投下などできるわけはないのだ。
となると、いわゆる、
「核のボタン」
というものがあり、核戦略システムが、そのボタンが押された瞬間に発動され、サイロが開くところから、発車まで、後は自動で行われることになる。
その時、
「間違った情報によって、発射が決定されたとしても、もう取り返しがつかない」
当然相手国も分かっているので、
「こちらに向かって核弾頭が飛んでくる」
というわけである。
そうなると、
「核のボタン」
を押すということは、
「一人の判断ではできない」
ということになるだろう。
戦争を始める時、独裁国家であっても、一応、議会承認がいるというこことが建前であれば、
「偶発的な事故だった」
という言い訳の利かない核ミサイルの発射には、少なくとも、大統領だけでなく、副大統領、国務大臣、陸海軍の大臣などの、ボタンが必要になるというものだ。
ただ、
「誤報というものが、あたかも、本当のように伝えられれば、少なくとも、戦闘当事国は終わりであり、その座を狙っている国による、
「諜報活動」
によって、誤報からの、ミサイル発射ということが起こらないとは限らないだろう。
そう考えると、
「核兵器が本当に抑止になるか?」
ということは、
「キューバ危機」
で世界の人たちは、思い知ったということである。
「偶発的な事故」
これが、世界を破滅させる第一歩になるかも知れないのだった。
そんなことを考えると、
「いたちごっこ」
という言葉がいかに、虚しい考えになるのかということを、今の政府は分かっているのであろうか?
実際に、
「核の力」
を抑止力として使うのではなく、
「外交手段」
として使用しようと考える人たちが少なくともいるのだ。
そもそも、
「最初に自分たちが核を持って、優位に立っているくせに、後から開発しようというのを、禁止するというのは、どういうことか?」
と考えるのも当たり前のことではないだろうか。
特に、
「核開発競争」
というものを、まともに見ていた、元社会主義国というのは、いまだに、
「核兵器を、外交に使える」
と考えているのだ。
ただ、今の時代は、テロであったり、ゲリラ戦が戦争の主流になってきているので、それこそ、戦後の社会主義国が行っていた体制ではないか?
それを思うと、今のように、社会主義国が、ほとんど崩壊した世の中で、
「核に頼る」
というのは、
「国際的に孤立している国」
という典型的な国家体制を表している。
ただ、この時代は、まだ、アメリカしか、核兵器を持っておらず、ソ連が開発することになるのだが、それまで、社会主義国というのは、いまだに、
「理想国家」
という考えを持っていた、著名人であったり、文化人もいたようだ。
しかし、ソ連や、中国のように、
「大粛清」
を行わないと、生き残れないということが分かると、
「反共」
というところに、結局は行くのである。
その結果、
「ソ連の崩壊」
により、世界から、社会主義国のほとんどは消滅した。だから、仮想敵国というソ連がなくなったことで平和になるかと思うと、各国の反乱分子が目立ってきて、アメリカを侵略者とみなして、テロ行為に走るのだった。
そんな状態で、核戦争が起こるわけもなく、今では、
「核軍縮」
が叫ばれている。
「孤立した国が、核に頼るとい」
という構造も分からなくもないのだった。
この当時、実は、二人の博士、
「湯川博士」
と、
「竹中博士」
の二人は、そのことを漠然とであるが、分かっていた。
「確かに、核開発は恐ろしい。核兵器が事故で使われるというのはあり得ることだ」
というのも分かっていた。
そして、科学者であるがゆえに、
「放射能汚染」
という、
「二次災害」
というものがいかなるものかということも分かっていた。
しかし、そんな中で、二人の間には、
「越えられない結界」
のようなものがあった。
それが、あたかも、
「民主主義」
と、
「社会主義」
の対立というような構図を示していることを、誰もしらなかった。
最初こそ、当事者である二人も分かっていない。
ただ、
「開発は俺の方が先に完成させるんだ」
という、科学者としての、プライドや意地のようなものがあるだけだと思っていたのだ。
しかし、実際に、二人の間で、何か、わだかまりがあるような気がしていた。
それは、
「似たような血液製剤を作るということや、満月の夜に活性化させる」
ということを同時に開発するということは、自分の開発したものが、相手との相乗効果で、
「負の連鎖」
というものを生むと考えられていたのだった。
二人の研究は、
「吸血鬼ドラキュラ」
そして、
「オオカミ男」
というものを開発していた。
これらの発想はイギリスの作家の書いた小説が元になっているもので、
「ホラー」
あるいは、
「ゴシック」
という小説のジャンルと言われるものだった。
ただ、この二つとは別に、もう一つ、言われているものがあった。
それが、
「フランケンシュタイン」
というゴシック小説で、この話は、ある意味曰く付きの話であった。
この話というのは、
「理想の人間を作ろうとして、怪物を作ってしまった博士の話」
である。
これは、その後にいわれる、
「ロボット工学」
の研究と言われるもので、
そもそも、この話の問題は、
「ロボットの電子頭脳が狂ってしまって、人間を支配したり、自分たちの世界を作ろうとしたりする」
という発想お元になったものであり、この発想を、
「フランケンシュタイン症候群」
という。
だから、ロボット開発において、
「ロボットが、人間に危害を加えたり、人間の命令を聞かないなどということのないような回路が必要だ」
ということで考えられたことだった。
作品名:満月と血液のパラレルワールド 作家名:森本晃次