満月と血液のパラレルワールド
だが、彼ら二人が、この存在を口にするわけはない。もし、口にしようものなら、戦時中ならいざ知らず、今の時代であれば、生きていくことはできない。
国家秘密警察に連行され、確実に殺されるということは分かっているからだ。
竹中も、もう一人も分かっていて、竹中としては、
「命あってのものだね」
と思っていた。-
今までの研究も、
「生き残ってこその研究だったということで、まずは、生き残ることを考え、生き残って初めて次を考える」
ということになるのだ。
戦時中というと、皆、
「命など惜しくはない」
という考え方から動いていた。
命がもったいなくないという考え方は、ある意味、自分の正当性を疑った時に考える。
「今まで自分がどのような残虐なことをしてきたか?」
ということを考える。
それまでは、
「これは国家や家族のため」
ということで、
「戦争中であれば、何をやっても許される」
ということだったのだ。
だから、言い訳であっても、許されると思えば、
「言い訳をした方が得だ」
ということになり、言い訳もせずに、自分を悪者にするということは、それが、
「自分のためにも、国家のためにも損なことだ」
ということになるはずなのに、それをしようとしないというのは、何かの洗脳が罹っているからではないだろうか。
確かに、言い訳をすれば、
「本人も国家も、助かることになるかも知れないが、その正当性というのは、あくまでも、本人にあり、本人の正当性が認められてこその、国家の正当性である」
ということになるので、
「もし、個人がおのおのの正当性を主張すればどうなるのだろう?」
その人の立場も違えば、その時の状況も違うわけである。
ということになると、
「人の数だけ」
いや、
「それ以上に、状況や、パターンが広がっていく」
といえるだろう。
一人のパターンにだって、無数にあるパターン、それが人間の数だけあるわけなので、状況とパターンを考えると、それだけたくさんの正当性が存在するわけで、その当事者が二人いて、対立しているとすれば、その場合の正当性は一つしかない。
「どちらかが正しければ、片方は、認められないということになる」
ということだ。
そうなると、
「言い訳した方が勝つ」
という、
「言ったもの勝ち」
ということになるのではないだろうか?
それを考えると、誰もが先を争っての、言い訳合戦ということになると、
「判断を下す必要がある」
ということになり、
「今度の民主主義」
というのは、先に言い訳をした方が、不利になる時がある。
もっとも、
「立憲君主」
と言われた。
「大日本帝国の時代」
というのは、
「自己犠牲」
というものが、もっとも、美しいとされた時代ではなかったか。
特に、君主としての天皇が一番であり、その次が肉親であり、親は家族であった。
つまり、
「天皇というのは、恐れ多いが、家族のようなものであり、家族である天皇のためには、皆死ねる」
という考え方だったのだ。
だから、大日本帝国では、
「家族を大切に、家族を敬う」
ということで、
「家族愛が、もっとも美しい」
とされた。
大日本帝国における家族が大切というのは、実は、どこの国の、どこの体制でも、同じなのではないだろうか。
しかし、この世界の、
「大日本帝国」
では、一般的に言われている、
「家族愛」
というものを感じているのは、
「この日本だけであり、しかも、日本人だけなのだ」
ということであった。
当時の大日本帝国というのは、周辺諸国をアジアから開放、あるいは、鎖国をしていたが、実は宗主国があり、その国の属国となっていたものを、宗主国との戦争によって勝利することで、属国を開国させるということをやってのけていた。
ただ、その国を後から併合することで、そこは、
「大日本帝国の一部」
ということになった。
だから、そこに住んでいる民族も、
「日本民族ではないが、日本人だ」
ということになるのだ。
ドイツの場合は、完全な、
「ドイツ民族至上主義」
というものを持っていて。そこでは、ドイツ民族以外を迫害したり、強制収容所送りにしていて、
「組織的な他民族の抹殺」
というものを大っぴらにやっていた。
同盟国であるイタリアも、基本は、
「古代ローマ帝国の隆盛」
というものを目指す。
ということを行っていたので、イタリアも、民族主義をとっていたといってもいいだろう。
同じ同盟国の日本の場合は、
「食糧問題」
などの、やむを得ない事情があったとはいえ、当時、一部に支配権のあった満州地区というものを、
「満州事変」
というものを興し、半年で、満州全域を占領する形になった。
しかし、ここを植民地にしてしまうと、世界各国からの避難が起こるのは必至だったので、
「あくまでも、独立国」
ということで、ちょうど、満州民族の国家であった、
「清国」
の最後の皇帝、
「愛新覚羅溥儀」
と擁立することで、
「満州支配の正当性」
を考えたのだ。
そこで建国された、
「満州国」
のスローガンとして、
「王道楽土」
つまりは、
「アジア的理想国家(楽土)という、理念として、西洋の武による統治(覇道)ではなく東洋の徳による統治(王道)で造る」
という考え方であった。
この発想は、その後の、
「大東亜共栄圏建設」
という、
「大東亜戦争」
のキャッチフレーズに繋がっていくわけだが、あくまでも、
「西洋による武力支配を排除し、アジアにおける、新秩序を確立するたねの戦争なのである」
ということである。
だから、大東亜戦争においては、一貫して、
「アジアの開放」
を謳って、それが、
「日本における、正当性」
だったのだ。
さらに、満州国のもう一つのスローガンに、
「五族共栄」
というものがあった。
これは、五つの民族。つまりは、
「満州民族」
「漢民族」
「モンゴル民族」
「朝鮮民族」
そして、
「日本民族」
の五つの民族が、一つの国家で助け合いながら。共存していくという考え方であった。
それが実現できれば、本来なら、一番いいのだろうが、どうしても、国家なのだから、支配階級というものは、存在しないわけにはいかない。
その民族としての一番は、もちろん、日本民族である。
その日本民族である、関東軍が、基本的には、
「満州国政府を指導している」
というのが、満州国の実態だった。
だから、関東軍の最高司令は、皇帝よりも、立場が上だといってもよかったであろう。
いくら、皇帝が、命令しても、日本国代表の、関東軍が承認しなければ、何もできないということである。
ある意味、今の日本と似ているかも知れない。
つまりは、
「満州国皇帝」
は、象徴であり、
「君臨すれど、統治せず」
ということになるだろう。
それを考えると、名実ともに、
「満州国」
というのは、
「日本の傀儡国家」
であるということになるのであった。
そんな満州国であり。しかも、国際連盟からは、
「承認しない」
と言われていたので、ある意味、
作品名:満月と血液のパラレルワールド 作家名:森本晃次