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因果のタイムループ

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 ということで、一番助かる可能性が低いのではないか?
 と考えられるのだ、
 タイムパラドックスというのも、理屈としては、一番信憑性があるように思うが、
「タイムパラドック自体、証明されているわけではないので、信憑性は逆に低いということになる」
 といえるだろう、
 では、
「ショックで死ぬ」
 ということであれば、それは、ドッペルゲンガーというものを信じ込んでいて、
「見たら死ぬ」
 という迷信を信じ込んでいるからだ。
 だとすれば、そんなものを信じないようにすればいいだけで、その人の性格的な問題が、死に至らしめると思うと、これが、一番何とかなることである。
 これは、要するに、
「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」
 ということわざのようなもので、性格的に、
「物事を信じやすい」
 ということで、性格的に素直すぎるから起きることだと言ってもいいだろう。
 それを考えると、
「ドッペルゲンガーというものは、本当はおらず、世の中に、三人はいると言われるただのソックリさんだと考えると辻褄は合う」
 しかし、
「ドッペルゲンガー」
 というものは、
「本人の行動範囲にしか現れない」
「何も言葉を発しない」
 などという言い伝えがあることで、
「ソックリさんではなく、本当に、もう一人いる自分なんだ」
 という考え方である。
 他にも言われていることはあるのだろうが、
「ショック死」
 という自然現象であったり、
「タイムパラドックスの証明」
 という、SFチックな考えであったり、
「精神疾患による幻覚」
 という精神障害という、医学的見地であったと、だいたいは、そのあたりになってくるのではないだろうか?
 それを考えると、
「ドッペルゲンガー」
 というものが、
「タイムパラドックスの証明」
 ということで考えるには、少し無理があるのかも知れないが、理屈という意味で考えると、ピッタリと嵌るのだ。
 タイムパラドックスが証明されていないことから、
「ドッペルゲンガーが証明されるくらいになった時、タイムパラドックスも、証明されるのではないか?」
 と考えると、
「タイムパラドックス」
 ということが、
「タイムスリップ」
 以外である、
「タイムリープ」
 であれば、起こりようがない。
 ということを証明してくれれば、
「タイムパラドックス」
 というのは、存在しないということになり、
「ドッペルゲンガーが、タイムパラドックスを証明するものだ」
 という考えは、同時になくなってしまうといいうこといなるのだろう。
 そして、もう一つのタイムトラベルに対してのことで、言われるようになったのが、
「タイムループ」
 と呼ばれるものだ。
 これは、
「定期的に、例えば一日というものを、ずっと繰り返している」
 という考え方である。
 これは、午前0時を過ぎると、急にまた昨日の午前0時。つまりは、24時間前の時間に戻っているというものだ。
 つまりは、自分では、
「今日をずっと繰り返していて、明日がこない」
 という考えであるが、果たしてそうなのか?
 ということも考えられるのであった。
 つまりは、
「今日を繰り返していると思うのは、まわりが、記憶にある、昨日と同じだから」
 ということから考えることであって、
 逆にいえば、
「自分だけが、翌日にいて、まわり全体、つまり自分以外が、同じ日を繰り返している」
 とは言えないだろうか?
 まったく逆の発想なのであるが、これもあり得ないことでhない。これこそ、
「電車の中で飛び上がって、電車の中での同じところに着地する」
 ということで、
「そのまわりには、何も影響しない」
 という考えに近いのではないだろうか?
 この考えというのは、
「ひょっとすると、アインシュタインが考案した、相対性理論の説明に使えるかも知れない」
 と、神崎は考えた。
 というのも、
「ロケットの仲が光速を超えるだけの速さであれば、時間の進みが他とは違う」
 ということで、ある意味、
「時間が、混ざり合う感覚ではないか?」
 といえるのではないだろうか?
 慣性の法則で考えると、
「ロケットの中が、電車と同じだと考えると、ロケットの中と表とでは、違う世界であり、ロケットの中で飛び上がっても、ロケットの中の同じ場所に下りるというわけだ」
 もし、これがそうではないとすれば、ロケットが飛び上がった瞬間、人間は、その圧力で、圧死するに違いない。
 音速をやっと超えた程度の戦闘機などでも、
「垂直落下よりも激しい圧力がかかるというのに、光速で飛んでいるロケットの中で、人間が耐えられるということ自体、考え方がおかしい」
 といえるのではないだろうか?
 それを考えると、確かに今は、光速を超えることはできないが、できるようになるとすると。それは、まるで、テレポーテーションをしたかの如くの世界に、ずっといることになるのではないだろうか?
 ということは、
「時間軸と、スピードの、一種の波目のような、電磁波のようなグラフの最短距離を移動するのが、ワープというものだ」
 というアニメを見たことがあるが、
「なるほど」
 と思わせる内容であった。
 その後のアニメも、それを基本として、ワープやタイムスリップを説明しているが、その通りだとすれば、タイムトラベルというのは、
「理論的には可能なのではないか?」
 と考えられる。
 しかし、この、
「タイムループ」
 と呼ばれる、
「同じ時間を繰り返す」
 という考え方は、どう考えればいいのだろうか?
「全体という発想が正しい」
 と考えるのであれば、
「何か大きな力が働いていて、一人の正しい人間に錯覚を起こさせている」
 ということになると、
 ある意味、
「今日と明日の自分は、同じ人間であっても、別の人間ということになる」
 もっといえば、
「タイムループを繰り返しているという意識がないまま、意識だけが、翌日になった時点で、もう一人の自分に入り込んでいく」
 という考え方である。
 そうなると、
「タイムループ」
 というものを証明しようとすれば、
「タイムリープ」
 を証明していることになる。
 また、この、
「タイムリープ」
 という考え方は、
「タイムパラドックス」
 ということを、
「タイムリープであれば、その存在を否定することができる」
 ということで、それぞれの考え方は、それぞれに影響うを与え、それが、
「まるで、循環しているように感じる」
 ということで、いわゆる、
「自然の摂理」
 というもの、さらには、
「輪廻転生」
 という考え方にも結び付いてくるのかも知れない。
 そう考えると、昔から言われている、
「循環」
 というものは、
「科学的見地を凌駕しているのかも知れない」
 といえるのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
 科学というものが、実は昔からの迷信であったり、都市伝説のようなものも、凌駕しているのではないかと思うと、
「世の中で、科学で証明できない」
 ということは、
「科学に対しての冒涜だ」
 という人がいるが、実は逆で、
「科学で証明できない」
 と考えることこそ、科学に対して失礼千万ではないかということだ。
作品名:因果のタイムループ 作家名:森本晃次