因果のタイムループ
つまりは、辻褄を合せることだけに特化した現象なのだがら、現実世界で、辻褄が合ってしまうと、せっかくの夢での辻褄合わせが、うまく行かなくなる。
それを思うと、
「夢の続き」
というものが、現実との間の結界だと思うと、
「交わることのない平行」
同様に、
「無限に辻褄を合わせようと、平行線を描いている」
ということではないだろうか?
そんな時代において、神崎が、自分の人生において。
「誰にも迷惑を掛けられていない」
ということに気が付いたのだった。
何かがあった時、
「助けてほしい」
というと、自然とまわりが助けてくれた。
しかも、それは、子供の頃からの意識の中にあったことで、
「困ったことがあれば、人に助けを求めればいい。お前はそういう幸運の下に生まれてきているのだから」
ということをおばあちゃんに教えられた。
しかし、学校では、
「人を頼ってばかりいると、誰も助けてくれなくなる」
ということを教えられたような気がするので、正直戸惑ってしまった。
だが、
「先生のいうことよりも、おばあちゃんのいうことをきく方が正しい」
と、感じるようになった。
特に、
「うちのおばあちゃんは、近所の人から信頼されている」
ということと、両親が、
「おばあちゃんのいうことをよく聞きなさい」
と言っていたことと、その両親も、おばあちゃんのいうことに逆らったことはなかったのだ。
そんな状態を見ると、
「おばあちゃんのいうことは、正しい」
と思わざるを得なあかったといってもいいだろう。
理由については、分からないが、言っていることに間違いはない。つまりは、
「間違いのない」
ということが、すべてだったのだ。
だから、おばあちゃんのいうように、
「困った時は、誰かに頼る」
ということにしていた。
しかし、ここで、一番重要なことは、
「困った時」
という前置きがあることだった。
「困ってもいない時に、人を頼るとどうなるか?」
ということは、神崎は考えたことはなかった。
そもそも、
「人に頼ることは嫌いだ」
という意識があった。
「なるべくなら、自分で解決できることは、自分で解決する」
ということを中心としたい。
つまり、おばあちゃんから言われようが言われまいが、
「困った時」
という条件がない限り、人に頼ることはないのだった。
子供の頃は、
「他人に頼らなければいけない」
というような、困ったことはなかった。
というのも、困るほどのことを、引き起こすほど、自分の行動や性格が、アグレッシブではないということである。
「危険を犯してまで、叶えたいと思うようなことが、子供の自分にあるはずもなく、性格的にも、何かをしないといけない」
というような、考えを起こすことはなかった。
一人で考え事をしていたとすれば、余計なことをしようとはしない。いわゆる、
「石橋を叩いて渡る」
という人を、用心深い人だと表現するが、神崎はそれ以上に、
「石橋を叩いても渡らない」
というほどのことを考えるような性格だったのだ。
「用心深い」
と言えば聞こえはいいが、それよりも、
「臆病だ」
といった方が正解だ、
それだけ、
「大きなことはできない」
ということになるが、逆に、
「大きな失敗もしない」
ということで、よく言えば、
「ギャンブラーではない」
ということであり、悪くいえば、
「根性なしだ」
といってもいいだろう。
ただ、この性格は、
「遺伝だよ」
と言われていたので、親が、そもそも、そういう性格だったことで、今のところ、親が仕事に失敗したり、親から、迷惑を掛けられたりということはしていない。
「お父さんと、お母さんは、それぞれに、用心深い家系に育ったから、それが受け継がれているんだよ」
とおばあちゃんはいった。
「お父さんは、そうかも知れないけど、お母さんの家系がそうだというのは、ただの偶然なんじゃないの?」
という質問をした。
神崎少年の頭の中は、他の少年のように、年相応の考え方をしていた。
いや、
「年相応の年齢のことしかできていない」
と言った方が正解ではないだろうか?
確かに、神崎少年の母親の家系は、
「用心深い家系なんだろうな」
というのは、母親を見ていれば分かったのだった。
だから、いつも、説教されることといえば、
「子供が危ないことをしようとした」
という時だけであり、極端な話、学校で、ひどい成績を取ったり、何かを忘れてきたり、なくしたりしたとしても、それほど怒られることはなかった。
もちろん、小言のような言われ方はするが、面と向かって怒りをあらわにするようなことはなかったのだ。
それは、
「用心を怠った」
ということで怒るのだった。
その時、子供心にであるが、母親のような性格を見ていると安心感があった。
「怒られることがない」
という安心感ではなく、
「用心深さ」
というものに特化した考え方をしているからであった。
その時感じたのが、
「お父さんは、お母さんのそんなところを好きになったんだろうな?」
ということであった。
その時のことが、おばあちゃんに質問した時、自分の頭に浮かんできたのだ。
だから、質問をしたのに、それに答えないおばあちゃんも、
「この子は、自分で分かる子だ」
ということを分かっているのか、顔を見ていても、
「ニコニコ」
という表情しかしていないのであった。
「本当にこの子は賢い」
と、思っていたようで、それが、おばあちゃんの目から見ての贔屓目があるのもしょうがないということであろうが、それ以上に、孫の性格を、
「信じて疑わない」
ということに尽きるのだろうということであった。
「お父さんは、そんなお母さんだから好きになったんだろうし、おばあちゃんも、その二人の子供だということと、私の目に狂いはないという信念から、お前が、言えば分かる子だということを信じて疑わないんだよ」
というのだった。
来世なのか?
神崎は、今40歳を迎えていた。
記憶の中には、この、
「不惑と呼ばれる年齢」
というものを、何か自分の中で、デジャブのように感じるのだ。
つまり、
「以前にも、迷わない」
という感覚を味わったということだ。
その時、思い出したのが、最近読んだSF小説で、
「タイムスリップもの」
と呼ばれるものだった、
最近まで知らなかったのだが、一種の、
「タイムトラベル」
というものの発想として、いくつか酒類が存在しているということである。
「存在している」
というよりも、
その種類が、元々は、
「タイムトラベル」
という言い方で、
「一つになっていたものを、細分化した」
といってもいいのかも知れない。
また、考え方として、
「新しく生まれてきた」
ともいえるかも知れないが、詳しくは分からなかった。
もっといえば、
「このネットの普及した時代なんだから、ネットで検索すれば出てくるさ」
という人もいるだろうし、神崎もそれくらいのことは分かっている。
しかし、それを彼は自分からしようとは思っていない。