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因果のタイムループ

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「夢というものには、時間という感覚がないというものではないだろうか?」
 というのは、よく言われていることとして、
「夢というのは、どんなに長いものであっても、目が覚める数秒間で見るものである」
 ということであった。
 確かに夢は、眠っている時に、どんなに長いと思っていると思って見ていたとしても、目が覚めていくにしたがって、次第に忘れられていくものという感覚が強くなってくるのであった。
 忘れていくことによって、見ていた夢がどんどん薄っぺらいものになっていくのは、完全な減算法だといってもいい。
 そうなると、
「次元と時間」
 という感覚でいけば、
「夢というのは、無限に広がっている」
 と言えないだろうか?
「限りなくゼロに近い」
 というものであるなら、その先には、決して交わることのない平行線であるかのような、無限というものが続いているのだ。
 つまり、
「無限というのは、広がっていくものではなく、限りなくゼロに近いものとして存在しながら、ずっと続いていくものであり、その力は、果てしなく、弱いものだ」
 といってもいい。
 見えるか見えないかのギリギリのラインで、夢は消えたりついたりしている、蛍光灯のようで、見えているのかいないのか、それを夢が証明しなければいけないのに、肝心の夢が意識から消えていくということであれば、それこそ、
「交わることのない平行線」
 というものの存在を、証明しているかのようではないだろうか?
 それを考えると、
「夢というものは、加算法かと思っていたが、減算法にしか考えられないのではないだろうか?」
 といえるだろう。
 過去の記憶を思い出すことは、積み木を組みたてるわけではなく、記憶という引き出しから少しずつ出していき、引き出しが、次第に空になってくる様子を考えると、
「記憶の引き出しというのは、実に小さなもので、その時必要なものだけを格納できるものだからこそ、夢を覚えているという感覚で、現実世界では、持ちこたえることができないほど、奥深いものだ」
 と考えると、
「無限に続く、限りなくゼロに近いもの」
 それが、減算法による、
「夢」
 というもので、加算法による、
「夢」
 というものも、存在しているのかどうか、その証明は、こちらも、交わることのないものなのであろう。
 神崎恭平は、自分が、今ここにいることに違和感を感じていた。
「この世界は、本当に自分の世界なのだろうか?」
 と感じるのだった。
 なぜなら、この世界での神崎は、
「やることなすことが、順風満帆で、何事も失敗することもなく、うまく行った」
 のだった。
 それは、よくいう、
「日ごろの行いがいいから、神様が見ていてくださるんだよ」
 ということであったが、果たしてそうなのだろうか?
 しかも、それをいうのが、両親だったのだ、
 その両親も、何事もなく、平和に暮らしている。しかも、両親には、何も目標があるわけでもなく、毎日を平凡に暮らしているだけだった。
 そして、その口癖が、
「一日一日を平和に過ごせればそれでいい」
 ということだった。
 恭平の子供の頃から、毎日同じことを両親は言っていたような気がする。
 そんな言葉を言われて、実際には、苛立ちがあった。
「そんな人生の何が楽しいというんだ」
 という思いであった。
 しかし、そのたびに、
「俺は何を言っているんだ。変に頑張られて、俺に迷惑でも掛けられれば、目も当てられないではないか」
 ということであった。
「迷惑を掛けられるくらいだったら、何もしないでほしいくらいだ」
 と言いたかった。
 確かに、その通りである。
 しかし、なぜ、そんな言葉に苛立ちを覚えるのか分からなかったが、最近になって分かったような気がしたのだ。
 高校生の頃、
「俺の人生って何なのだろう?」
 とふと考えたのだ。
 何も目標もなく、ただ、その日暮らしをするだけだ。おかげで、趣味もなければ、やりたいこともない。
 そんなことを考えていると、いつものごとく、両親の、
「その日が平和に暮らせればいい」
 という、いわゆる、
「平和ボケ節」
 とでもいいのか、その言葉を聞くたびに腹が立つのだ。
 最初は、
「そんなことを言っている両親に腹が立っているのか?」
 と思ったがそうではない。
「俺が、嫌に感じているのは、そんなことを言っている両親に、今まで何も感じなかった俺に腹が立っているのだ」
 ということだ。
 何か、引っかかるものがあったが、それが何か分からない。まるで、夢を見たのに、その夢の内容を思い出そうとして思い出せないということに似ている。
 思い出せないことに苛立ちを持っているくせに、その思いを自分で認めようとしないのだ。その時に、
「謂れのない苛立ち」
 というものを感じる。
 つまり自分は、
「何に苛立っているのか?」
 というのは、
「謂れのない」
 ということなのに、理由も分からずに苛立っているということが分からない、自分自身に苛立っているということであった。
 そのくせ、順風満帆で、何事もない状態が、ムズムズする気持ちにさせられ、だからこそ、
「謂れ」
 というものがどこにあるというのかが、分からないということになるのだった。
 神崎は、最近、
「自分がどうなってしまったんだろう?」
 と思う時があった。
「何かの記憶が途中で途切れている」
 という感覚があるような気がするのだった。
 というのも、途切れているというのか、まるで、何かの、
「夢の続き」
 というものを見ているような気がするのだった。
「夢の続き」
 なるものを見ることは、普通なら不可能だ。
 それこそ、まるで
「デジャブ」
 のように、
「以前に、どこかで見たような」
 あるいは、
「聞いたことのあるような」
 という感覚を感じる時であった。
 というのも、デジャブというものを、
「実は夢の続いだった」
 と思えば、理屈としては、
「成り立つのではないか?」
 と考えられるのではないか?
 と思うのだった。
 夢というものは、
「絶対に続きを見ることのできないものだ」
 と思い込んでいるのだが、本当にそうであろういか?
 しかも、夢というのは、いつも、
「ちょうどいいところで終わる」
 というものだ。
 それはいい夢でも、悪い夢でも同じで。もっといえば、
「続きを見たい」
 と思う夢でも、そうではない夢であっても、見ることはできない。
 その影響がどこに来るのかというと、
「目が覚めて、覚えているかどうか」
 というところに引っかかってくるのだった。
「続きを見たい」
 と思う夢ほど、曖昧で、覚えていないものだ。
 だから、
「いい夢だった」
 ということで、自分の中で納得させようとするのだろう。
 それが、
「辻褄を合せる」
 ということであり、辻褄が合っていないと、理屈すら通らなくなり、自分で理解できなくなると、
「夢を見た」
 ということすら、打ち消したい気分になるに違いない。
 夢というものが、
「いかに、辻褄を合せるための、言い訳に使えるか?」
 ということであり、それを証明しようと考えられた現象が、
「デジャブ」
 というものではないだろうか?
作品名:因果のタイムループ 作家名:森本晃次