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石ころによる家畜の改造

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 ゆいかという女の子は、そういうことを考えるタイプで、必要以上のことを考えるタイプではないが、他の人と少し違う視点から考えることが多いが、それは、いつも的を得ている考え方であった。
 友達は、それを熟知していて、
「大学時代の友達と、今の友達くらいしか、そのことを知っている人はいないだろうな」
 と思っていた。
 会社では、ゆいかのことを、それほど見ている人がいるわけでもなかった。
 ゆいかは、あまり目立つ方ではなく、それは作為的に目立たないようにしているからで、それだけ嫌われるということを嫌だったのだが、最近ではそうではなく、
「ただ単に、人と関わることが嫌だ」
 ということだったに違いない。
 そんなことを考えていると、
「私も、外人が嫌いだという友達の気持ちもよく分かる気がするわ」
 ということであった。
 外人というのは、
「とにかく、なれなれしい」
 としか思わない。

「明るくて、社交的だ」
 というのは、
「実に都合のいい考え方だ」
 ということであった。
 それを思うと、またしても、怒りがこみあげてくるのを感じたのだった。
「いやいや、せっかく、サルを見て癒されたのだから、外人なんて、考えることはないんだ」
 ということであった。
 眠っているうちに、先ほどのサルが出てきた、
 サルはこっちを見つめている。前に聴いた、
「目を合わせてはいけない」
 という意識は夢の中ではなかった。
 サルの目は、実に澄んでいて、潤んでいるようにさえ思えるのだ。
 癒しというのか、何かをうったえているように思える。何をうったえているのかは分からないが、その気持ちが分かるのは、気が付けば自分の視線が、サルから目を離せなくなってしまったからだ、
「ひょっとして、サルも私の視線に何かの訴えを感じているのかも知れないわ」
 と感じたほどだった。
 そこには、友達もおらず、他のサルも人間も誰もいない。そこにいる二人はガラス越しに相手を見ている。
 だが、それはあくまでも、顔が見えているだけで、その様子が、いかにも落ち着いた気分になっていた。
 そんなことを感じると、いつの間にか、そこにガラスはなくなっていた。
 まるで、ゆいかの気持ちを代弁しているようなっシチュエーションに、
「これは夢なんだ」
 ということが分かるのだった。
 相手がサルだという感覚が薄れてきた。
 そこにいるのは、まるでペットの犬と一緒にいるかのような感覚である。
 ゆいかは、実家に帰ると、家で犬を飼っていた。しかも、田舎は本当に田舎であり、野かもあれば、牛や豚などを飼っている家畜農家も結構あるのだ。
「家畜農家というと、なかなか今では見ることはできない」
 と思っていた。
 何といっても、その異臭は慣れている人であっても、そう簡単に耐えられるものでもない。
 それを思うと、家畜というもの、嫌いになるものなのだろうが、ゆいかはそうでもなかった。
 実家が、
「畜産農家だ」
 というわけではないので、そう感じるのかも知れないが。、
「家畜というのは、本当にかわいい」
 と感じていた。
 一般的に、
「豚って臭いし、汚い」
 と思われがちだが、
「実際には綺麗好きなんだよ」
 という話は、昔からよく聞いたものだった。
 牛にしても、あのつぶらな目は、じっと見ていても飽きない。確かに牛小屋というと、どうしても、
「田舎の象徴」
 という雰囲気があり、その汚さは、
「群を抜いている」
 といってもいいくらいなのかも知れないが、それも仕方のないことなのかも知れない。
 そんなことを考えていると、
「家畜って、本当にいいな」
 と思うようになっていた。
 家畜やペットを見ていると、次第に、その差がよく分からなくなってきて、
「目を合わせることが、決して悪いことではない」
 と思うようになってきた。
 しかし、一番の問題は、
「家畜というのは、最終的に、食料になるために飼われている」
 ということであった。
 だから、
「どんなに可愛い」
 と思ったとしても、最終的には、食用として売られてしまい、気の毒なことになる。
 それこそ、童謡にある、
「ドナドナ」
 というのを思い出し、
「子牛を載せて、荷馬車が揺れる」
 という歌詞がメロディに乗せて聞こえてくるのを感じるのだった。
 ゆいかは、先ほどのサルと目が遭ってから、どうしたのだろう?」
 気が付けば目が覚めていた。
 その時感じたのが、
「夢の続きを見続けたかった」
 と感じることだが、それは、
「まるで、そのサルが自分の子供のように思えて、抱きかかえてあげると、サルが安心して、そのまま眠りについている姿が思い浮かんでくるのが印象的だった」
 あれが夢の中でのことだったら、どれだけいいか?
 とそんな風に思うのだった。
 そもそも、
「夢というのは、いい夢は憶えていることはない」
 と感じるもので、
「嫌な夢。怖い夢ほど覚えているものなのだ」
 と感じているのだった。
 今でも、夢を見る時、
「怖い夢しか覚えていない」
 というのは、どこか悲しかった。
「楽しい夢を見たはずなのに」
 と感じるくせに、それ以上を思い出せないのは、
「思い出したくない」
 ということからなのか、
「思い出すことによって、何か都合が悪いのか?」
 ということを考えると、
「夢って、都合よくはいかないくせに、自分の知らないところで、都合よくできているのかも知れないな」
 ということであった。
 だから、精神的に、きついと思える時は、
「なるべく、夢は見たくない」
 と感じるのであった。

                 石ころのような男性

 その男性が、チェックインしたことを、ゆいかも、友達も知らなかった。
 もっといえば、会社の人の誰も知らなかったといってもいいだろう。
 だが、誰にも見られていなかったわけではない。ロビーでチェックインしている時も、会社の誰かが見ていたはずだ。宿の人も、意識があったのだろうが、今度は、宿の人は、そんなにその人を意識しないようになった。
 どちらかというと、
「団体客の中の一人だ」
 と感じていたことだろう。
 これは、イソップ寓話の、
「卑怯なコウモリ」
 という話に似ている。
 この話は、
「獣と鳥が戦争をしているとことがあって、そこに通りかかったコウモリの話」
 である。
 その時コウモリは、
「鳥に向かっては、自分には羽根が生えているから、鳥だといい」
 そして、
「獣に向かっては。自分の身体には体毛が多いから、獣だ」
 といって、逃げ回っていたというのだ。
 確かに、そう言われれば、そうである。
 ただ、このコウモリの話は、
「目立たないわけではない」
 逆に目立っているところを逆手に取ったやり方なので、動物の本能の中にある。
「保護色」
 であったり、
「身体に毒性を持っている」
 などという、そういうものではない。
 そんな、
「卑怯なコウモリ」
 であったり、それ以外の
「保護色」
 などと違い、
「作為的なのか、無作為なのか分からないが、気配を消している」
 というものもある。
 それは、いわゆる、
「石ころのような存在」
 というものだ。