石ころによる家畜の改造
「それは、湯治か何かですか?」
と聴くと、
「ええ、そうですね、昔だったら、神経痛やリュウマチなどに効くということだったんですが、最近では、効能を科学的に調べている研究所の人がいて、その人がいうには、心臓病や、成人病にも効果があるということを言いだしたもので、一時期、繁盛してしまい、パンクしかかったことがあったくらいで、あの時はあの時で、大変でした」
という。
それこそ、
「嬉しい悲鳴」
ということであろうが、実際にやっている人間のきつさは、サービス業関係の仕事という意味で同じなので、結構大変だということが分かるのだった。
「例の、世界的なパンデミックになった時というのは、本当に目の前が真っ暗でしたね。でも、まわりも、どこも、同じ状態だったので、何とか頑張っていこうと思って、今こうやって、お客様を呼び込めるようになったのは、本当に嬉しい限りですね」
と感無量というところであろう。
女将さんが、温泉のことを説明する中で面白いと思ったのが、
「この温泉には、いくつもの、湯がございます。もちろん、お部屋にもありますし、室内風呂の、大浴場もありますし、数種類の露天風呂もございます。露天風呂は、まわりに、滝があったり、神社の横にあったりと、もちろん、お祓いや、方角などを見てもらって作っているので、そのあたりは安心です」
という。
そしてさらに続けるのは、
「このあたりには野生の動物が結構生息していて、人に慣れている動物も多くて、それらの動物が湯治にやってくる湯もあるんですよ。もちろん、直接触ることはできませんが、動物たちが湯治をしているところを見ながら、温泉に浸かることができるという、画期的な温泉になっているんですよ」
というのだ。
それを聞いたゆいかは、
「まあ、素敵だわ」
というと、隣の友達も一緒に眼を輝かせていた。
「じゃあ、後で行ってみましょうよ」
というと、
「ええ、そうね。楽しみだわ」
といって、話をそこで終えて、それぞれ、自分の部屋に戻っていった。
「じゃあ、15分後にここで待ち合わせましょう」
といって、ロビーのそだーを、待ち合わせ場所にすることで、二人は、そのまま自分の決められた部屋に入っていったのだ。
部屋に戻ると、すでに、他の人は、
「戸店風呂に行く」
ということで、ここの温泉の目玉である、
「露天風呂へ入る」
ということだった。
もし、他の人が、最初に、
「動物を見ながら入る」
ということであれば、
「私たちはなるべく他の人と一緒にはなりたくはないわね」
と感じるのであった。
それは、ゆいかとすれば、
「元々、温泉には一人で来ることが多かった時の流れがあるからだ」
というのも、
「昔のような、執筆活動ができればいいんだけど、ここではできないだろうな」
と思ったことでm正直、イライラした感覚があった。
昔から、
「温泉地というのは、湯治という言葉になぞらえた、創作活動に勤しむところである」
と思っていたからだった。
温泉というところは、執筆活動には、最適で、執筆だけではなく、
「絵を描く」
ということであったり、中には、
「作詞作曲」
という曲作りに勤しむ人もいることだろう。
つまり、
「芸術家と、温泉というのは、切っても切り離せない」
と思っている。
よく、
「明治の文豪ゆかりの湯治場」
ということで宣伝しているところもある。
といっても、
「旅の途中で一度だけ立ち寄った」
というだけのところもあるだろう。
ただ、数泊しただけということもあっただろう。何も、執筆活動に勤しんでいたというわけではないのかも知れない。
それを、宣伝文句として使うのは、少し卑怯な気もしたが、確かに立ち寄ったのであれば、
「宣伝もやむなし」
といってもいいだろう。
それを思うと、
「自分も、文豪になったかのような気分になれるのであれば、名目だけでもいい」
と思うだろう。
何しろ、自分は別にプロというわけではない。素人のアマチュアなので、気分転換ができるだけで十分である。
そう思っていると、
「温泉宿というのは、実にいいところだ」
といえる。
自分で勝手に、妄想して、いくらでも、想像を巡らせばいいからであった。
だから、今回の温泉も、
「結構いいところだ」
ということが分かれば、
「今度は一人で来てみよう」
ということになる。
だから、今回の慰安旅行は、
「自分のリサーチの予行演習のようなものだ」
ということであった。
温泉というのは、本当にいいところで、それが分かれば、また、
「小説執筆」
ということを趣味にしてもいいような気がした。
今までは
「仕事が忙しい」
ということにかまけて、趣味を忘れてしまっていた。
半分は、
「趣味に嵌ってしまって、仕事がおろそかになることを嫌った」
といってもいい。
しかし、
「趣味はあくまでも趣味であり、気分転換だ」
ということが分かれば、それで十分なのだった。
頭ではわかっているつもりでいるが、実際には。どこまでが理解できているのか、自分でも分からなかった。
今回の慰安旅行でそれが分かることができれば、この時間、
「イライラが残ったとしても、大きな阿問題ではない」
といえるのではないだろうか?
というのも、
「せっかく温泉というところに来ているのに、執筆活動ができない」
ということになると、自分のペースが狂わされたようで、たぶん、自分でもよく分からない苛立ちに見舞われるだろうと思うのだった。
今はその執筆活動を、
「仕事のために辞めている」
というわけである。
仕事のためであれば、何とかイライラせず医済んでいると思ったが、実際には、イライラはしているのであって、抑えているだけだと思えば、それは却って、本末転倒だと思ってもしかるべきではないだろうか?
だが、今回は、慰安旅行というだけで、
「別に執筆活動ができない」
というわけではない、
確かに、以前からパソコンを持ち歩いて書いていたので、今回は、パソコンを持ってきているわけではないので、勝手に、
「執筆ができない」
と思っているだけで、
「手書きであれば、いくらでもできる」
というもので、実際にできないことはまったくないということである。
実際に、筆記具とノートは持ってきていた。ロビーででも、どこででもできるというものだ。
中には、
「何をしているの?」
といってくる人もいるだろうが、どうせ自分に興味があって聞いてくるわけではないということだろうから、恥ずかしがることもまったくないというものだ。
サルの温泉
友達との待ち合わせ時間に行くと、彼女はすでに待っていた。
いつも、
「時間きっちりで行く」
というゆいかであったが、彼女の方は、
「約束よりも絶対に先にいく」
ということを信条としているので、結果はいつも同じであった。
「待つのは彼女の方で、ゆいかは、自分が待たせる方だ」
ということであった。
だから、この状況は最初から分かっていたことであって、
「安定の待ち合わせ」
ということで、
作品名:石ころによる家畜の改造 作家名:森本晃次