石ころによる家畜の改造
「少しでも、会話ができたかも知れない」
と思うのだが、思い出すたびに、
「そんなことはありえない」
と自分に言い聞かせようとする、
「もう一人の自分がいる」
ということを、思い知らされる気がするのだった。
「確かに恨んでいるし、自分の中に、拭えないというトラウマを残したのは、父親の責任だ」
ということになることを感じていた。
だとしても、死んでしまった人のことを、一括りにして、
「モンスターピアレント」
という言葉で片付けていいものかどうか、それを考えてしまうのだった。
「親にだって、それなりの考え方はあっただろうに」
と思うと、このままでは、自分が親になった時、父親と同じ轍を踏んでしまうということになりかねなかったのだ。
大団円
その露天風呂の中には、一人の男性がいて、その人は後ろを向いている。
声を掛けようかと思ったが、声を掛けるのが怖い気がして、後ろから覗いていた。その様子は、まるで、
「昔の父親の背中を見ているようだった」
という思いであった。
父親が嫌いだったのは、小学生の頃が一番だったが、
「なぜ、どうして嫌いだったのか?」
ということが分かっているくせに、今では、
「どうして、あんなことが嫌いだったのか?」
と思うのだ。
何と言っても、
「大人になったら、あんな大人になど、なるものか」
と感じることが多いというが、正直その思いが、今でも感じられる。
「なぜなのか?」
ということを思い出そうとしてみると、そこにあったのは、
「親の無意味な拘束」
というものであった。
「子供なんだから、拘束なんかしようとしなければ、普通にいうことをきくのに、そんな理不尽なことをするから、反発するんだし、反面教師にしかならないんだ」
と、父親に言いたいくらいだった。
「反面教師?」
と思った。
「ああ、そうだ。父親のあの態度は、反面教師なのだ」
と考える。
目の前の男性、
(たぶん男性だと思うが)
その男性は、まるで、
「自分を生まれる前、いや、結婚前の父ではないか?」
と思えてならなかった。
いや、というよりも、
「それ以上でも、それ以下でもない」
という言葉があるが、まさにその通りだったのだ。
男は、まったくこっちに気付こうとはしない、明らかに、露天風呂の方まで来ているので、気付かないということはないはずなのだが。
と、そんなことを考えていると、男が、まったく動いていないかのように思えたのは、錯覚であろうか?
そういえば、子供の頃に、父親が風呂に入っているのを見た時、
「息をしているんだろうか?」
と感じるほどに、まったく微動だにしない姿を見て、
「おかしいな」
と感じたということを思い出していた。
思わず、
「お父さん」
という言葉が漏れそうで、我慢していたのだ。
男は、こちらの方を見ないどころか、
「自分が、そこにいる気配を消そうとしているのではないか?」
と感じた。
しかし、そんな素振りはまったくないのだ。
相手は、気配を消そうとすればするほど、ゆいかには、その存在は見えてくるのだ。
ゆいかは、最初、その男性を、
「石ころだ」
と感じた。
しかし、それにしては、その存在感が、どんどん増してくるのだった。
それは、ゆいかにとって、今までに感じたことのない感覚であり、その思いが、自分の中で、交錯しているかのように感じたのだった。
「何が交錯しているというのか?」
などということを考えるのだった。
相手が石ころのような男性だと思うと、子供の頃に感じた
「ある人間」
のことを思い出した。
子供の頃といっても、中学生になっていたかどうかというくらいだった。
家の近くに、当時でいうところの浮浪者がいて、その人のことを、まわりは皆、
「動物のような人だ」
といっていた。
しかし、動物といっても、猛獣というわけではない。
「いつも静かで、相手に攻撃を加えるなどということは絶対にしない」
という感じである。
「まるで、ペットのような感じだな」
という人がいたが、ゆいかは、そうは思わなかった。
「ペットであれば、もっと従順で、愛らしさがあり、それは、人工的に作られたという感覚が強い」
ということだ。
しかし、その男性は、
「決して従順ではなく、怯えがあるだけで、その怯えのために、逆らわないだけど、従順などというわけではない」
ということであった。
確かに、人間にとって従順なのは、ペットであり、かといって、
「野生の動物」
のような力強さや恐ろしさはない。
それどころか、
「人間に対して、やっかみのようなものが感じられるくらいで、こんな状態を何と表現していいのか分からなかった」
しかし、見ていくうちに、
「これは、家畜ではないか?」
ということであった。
可愛がってもらえるというわけではなく、
「最終的に、食料としたり、食料として、売ることで、お金にしたり」
という、
「人間の都合のためだけに、飼われている」
という、いわゆる、
「食用の動物のことである」
もちろん、食用だけではなく、アクセサリーや、毛皮などの贅沢品にしたりするのだ。
「太らせて食う」
という、
「最初に、天国にあげておいて、最後には、地獄に叩き落す」
というものであった。
中には、
「人間が生きていくためには、絶対に必須な動物もいるが、まだ、救われる」
というものだ。
しかし
「救われる」
というのも、人間の勝手な妄想であり、それを考えると、別に救われるわけではなく、
「人間というものエゴが生んだものだ」
といえるだろう。
生きていくためとしての、
「自然の摂理」
というものに、不可欠なものもあり、それが、
「弱肉強食」
という形となるものこそ、
「家畜」
としての価値があるというものだ。
そんな、
「家畜」
というものを、
「人間の都合として解釈するというのは、人間のように、自分たちの都合で殺し合うことをするような種族に、決してその悲哀が分かるわけなどないだろう」
ということであった。
家畜と違い、ペットというと、実に従順で可愛いものである。
しかし、最近では、そんなペットを、
「家畜以下」
という扱いをする連中がいる。
それは、
「金儲けだけしか考えておらず、ペットを増やして、子分たちの利益のためだけに利用する」
というやつらである。
普通の買主でも、平気でペットを捨てる輩もいて。
「ペットは、買主を選べない」
という言葉が、そのままであるはずで、最初は、自分が、
「可愛い」
と思って飼ったくせに、そのうちに、
「飽きがきた」
ということで、捨ててしまう輩である。
中には、
「売ってしまう」
というやつもいて、それが、相手がいい買主だったらいいのだが、悪徳ブローカーなどの、
「転売ヤー」
などであれば、ペットの運命は悲惨でしかない。
さらに、最近では大きな問題となっている。
「悪徳ブリーダー」
という連中も、さらに、ひどいものだ。
というのも、
作品名:石ころによる家畜の改造 作家名:森本晃次