石ころによる家畜の改造
「男ができると。ここまで、男優先になるものなのか?」
というほとに、会う機会が激減した。
自分と遭っている時間があれば、
「彼氏と一緒にいる」
と言わんばかりのあからさまな変わりようだった。
今まで、彼氏というものがいたことのないゆいかだったので、
「なんだかなぁ」
と、友達の急変に、少し寂しさはあったが、それは、自分に彼氏がいないということの現れだということに気付くまで、少し時間がかかったのだった。
「私、彼氏がいようがいまいが、関係ない」
と思っていたのは、
「友達も彼氏がいないんだから、彼氏がいないもの同士、一緒にいれば、それでいいんだ」
と考えていたからだった。
しかし、完全に、
「抜け駆けされた」
と思ったゆいかだったが、たまに会う時は、彼氏の話題に触れることなく、いつもの彼女でいることで、
「彼女は、天真爛漫で、やはり、一番はこの私なんだ」
と思わせるように感じた。
そのおかげで、それまでの、
「自分はハブられている」
というような感覚は次第になくなってきたかのように思えてきたのだった。
だから、今度は、
「私が悪いことをしたんじゃないか」
と思い、
「今回の旅行では、なるべく一緒にいたい」
と感じたのだ。
その思いが彼女にも分かったのか、気持ちが通じるという感覚だったのだ。
それを考えると、
「私は、一人ではない」
と思うことができたのはよかった。
しかし、そう感じた心の裏には、
「私には、彼氏がいないんだ」
という感覚がこみあげてくるのを、妨げることはできなかった。
「今すぐにでも、彼氏がほしい」
というわけではない。
できたらできたで、
「どんな心境になるのだろう?」
と感じるのは、何か怖い気がしたのだ。
だから、今回の旅行でも、
「彼女と一緒にいない時間というのも作って、自分の本来の気持ちがどこにあるのか?」
ということを知りたいと思ったのだった。
「彼女には、どこまでその思いを感じさせるのか?」
と、まるで、もう一人の自分が、自分というものを見ているかのような感覚になっていた。
「これこそ、まるで夢を見ているかのようじゃないか?」
と思うのだった。
「夢というのは、主人公として、演じている自分を、それを観客としてスクリーンを見ている自分の二人が祖納する」
と思っている。
演じている自分は、主人公であって、わき役がたくさんいるのは分かるが、
「実際に見ている自分は、一人でいろというのだろうか?」
と感じるのだ。
というのも、
「目はスクリーンに釘付けになっていて、目を逸らせば、すぐに夢から覚めてしまうのではないか?」
と感じるからであった。
目が覚めてしまっては、本末転倒。
「まわりに誰がいるかなんて、考えると目が覚める」
ということになるのだろう。
ということであった。
そんなことを考えながら、ゆいかは、いよいよ、滝のある温泉に行くのだった。
少し足元がぬるぬるしているのを感じると、
「夜は、年配の人には厳しいかな?」
と考えた。
そういう意味で、
「上司は決してこないだろうな?」
と考えると、安心感が膨らんできた。
ただ、
「誰も本当にいないと、寂しいかも知れない」
という思いもあるのも一つの思いだというのも、本当の気持ちであった。
「やっぱり、彼氏がほしいという気持ちは強いのかしらね」
と考えていた。
それは、もちろんそうであろう。
その人を好きになれるかどうかというのは、今まで交際経験がないことから、一番に気にすることだった。
それは、
「自分のことを好きになってくれるか?」
ということよりも強い気がした。
なぜなら、
「まずは、自分から好きになる」
ということが恋愛だという風に思っているからであり、もし、
「相手から先に好きになられると、そこには、今までに感じたことのない、有頂天な気持ちというものが出てくるのではないか?」
と感じるからではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「私は、好かれてみたいという気持ちの方が、本当は強いのかも知れない」
と思った。
普段は、
「謙虚だ」
と思っていたゆいかであったが、実際には、
「自己主張をなるべくしたい」
と感じているのではないかと思うのだった。
自己主張というのは、
「あまりいいものではない」
と感じているからであり、何をどう考えればいいのかを考えるには、今回はちょうどいいのではないかと思うのだった。
温泉mで行くと、誰かが入っているのを感じた。
よく見ると、男性のようだったので、一瞬だけ躊躇したが、元々混浴と分かっていてきたのだから、問題はないだろう。
宿の人も、何らかの注意喚起もなかったので、今まで問題があったわけではないと思うと、
「大丈夫だ」
と自分に言い聞かせて、ただ、
「自分の中での注意」
だけをしておくことにしたのだった。
脱衣場は、簡素に作ってあるが、それだけに、混浴でも当たり前だという気がして、気が楽だった。
混浴というところは、初めてだったが、タオルを巻いてのことなのでいいだろう。
温泉で、タオルをつけるのはいけないことだと言われているが、混浴であれば、それは仕方がない。中には、水着を付けているというくらいの人もいるかも知れない。
ゆいかは、そこまでは考えていない。なぜなら、
「そこまでするくらいなら、混浴には入らない」
と思っている。
特に、温泉のような温かいところで、タオル以外の何かを身に着けているとうのは、気持ち悪いと思うからだった。
実際には、水着自体もあまり好きではない。
小学生の頃から、水泳は苦手だったし、海水浴も、
「潮風が苦手」
ということで、嫌だった。
特に、海水浴に家族で行ったりすると、いつも、翌日に熱を出していた。
海水浴が原因ではなく、
「たまたまだ」
ということであっても、それは、
「トラウマと化す」
といってもいいレベルの問題で、実際に、トラウマとなっていた。
それをまわりの人も誰も気付かってくれなかった。
肝心の親も気にしていない様子で、毎年のように、海水浴に連れていかれたものだった。
そういう意味で、
「親も嫌いだ」
と思うようになっていた。
「本当であれば、親が気づくはずだ」
ということは、小学生の頃には分からなかった。
親が気づかずに、強引に連れていくことに関しては、
「毎回熱が出ているのを分からないんだ」
ということで諦めてはいたが、その分、
「親なんてそんなものだ」
ということで、親に対しての、感情など、ないに等しかったといってもいいだろう。
そんなことを感じていると、
「一人で孤独がいい」
と感じるようになっていたようだった。
実際に、
「孤独がいい」
と感じるようになったのは、もっと成長してからであったが、その前提としての感情が芽生えたのは、小学生の頃だったのだろう。
普通に考えれば、
「そんなことは当たり前だ」
と思うのだ。
作品名:石ころによる家畜の改造 作家名:森本晃次